何のためにココにいるのか 第59話 想像する

第59話 想像する イマジナーレ より (バンビーノ!6 せきやてつじ 小学館


アパレルメーカーを経営するビットリオ会長の野上に、ロボットみたいな仕事だから、給仕を代えてくれと言われて、外されたバンビーノ(主人公)は、給仕長の与那嶺に見送らないのか?と言われて、一瞬迷うが、駆けつけ、俺は機械ではない、サービスのどこがわるかったのかと問うバンビに、野上がアンタは何のためにホールにいるのか、と問い返すがバンビが答えられない、というシーン。




料理人である以上、イタリアンでお客さんにイタリアンを出す店で働く以上、何のためにココにいるのか、ということが分からなければ、ソコではやっていけないだろう。そのココはどこでもいいのか?
そうした人々は、結局、理由にならない理由をいって去っていき、どこにいってもまた、ココにいるという理由を見つけられずに、移っていく。さらにソコにいる人の気持ちがわからない。ココにいる意味がわからないのなら、何でいるのか、という問いを送らずにはいられないだろう。

そんな問いを自問しないでもやり過ごせる人もいるのかも知れない、と思わないでもないが、別の世界に暮らしているということだろうか。

日本語教育を中途半端にやっている人の危険性もここにあるのかもしれない。人に合わせる調子はいいが、その人自身の実がないということはないだろうか。学習者主体の日本語教育、それは題目としてはいいが、じゃああなたは教えたいことはないのか?それは逃げ道の危険性が大いにある。数年前、そうがく社さんの求人にページにスタッフとして募集の掲示を出してもらった時に、面接に来てくれたひとと会って感じたのは、主体的に選択していないなあ、あなたのドコがないゾということだった。

教えたいものがない人にとっての学習者主体というのは、単純に教える側に主体がないだけであったりして。

しかし、それでは社会人になれないし、さらに本作りはできないだろう。