『言語研究の技法』シンポジウム

『言語研究の技法』に関するシンポジウムが、名古屋大学大学院国際開発研究科主催で、1月28日に開催されます。




公開シンポジウム
言語研究の技法:脳・視線・音声・コーパス

2012年1月28日(土曜日)午後1時から6時
名古屋大学大学院国際開発研究科 8階 オーディトリアム 地図
国際コミュニケーション専攻主催



 http://www2.gsid.nagoya-u.ac.jp/wiki/dicom/wiki.cgi?page=DICOM2012Symposium

文化財を税金で回すモデル

文化「財」に文化ビジネスが関わる余地がないと、税金モデルでしか存在できなくなるかもしれない。官僚と大学人だけで、文化「財」を回すモデルになるのではないだろうか。文化社会主義と呼ぼうか。そうだとすると税金をマッチポンプする仕組みはビルトインされないといけないことになる。王侯主義と呼ぶべきか。それでいいと思っているのだろうなあ。文化ビジネスは、その結果、排除されていくことになる。たとえば、クラシック音楽の活動をすべて官僚だけにゆだねるということと同じことになると思うのだが。

参加しているのは、凸版かあ。大きめのビジネスとして、大きな国家予算で回していく、という感じだなあ。税収が少ない中、一部のデジタルビジネス産業が、受注発注型ビジネスとして、税収で回していくということなのではないだろうか。

参加して意見を言うべきだろうけれども、商売という発想がまったくないところでは、聞く耳は持たれないだろう。




シンポジウム文化情報の整備と活用 デジタル文化財が果たす役割と未来像2012


http://www.digital-heritage.or.jp/symposium3/index.html

社員を募集します。

社員を募集します。


今回の募集は、1年間の契約社員です。


約束はできませんが、継続されることもあります。以下の場合です。本人の学術出版の出版人としての適性があること、ひつじ書房の売上げが、十分に1人分の給料を継続して払える状態であること。契約社員だから、容易な仕事、安易な仕事をしてもらうというのではなく、社員と同等の仕事の、社員の初年と同じ過程を経ていただきます。


仕事の内容は、本の受注から、書店対応、書店営業、学会で書籍の販売などの営業的側面、返品整理、在庫の棚卸しなどの商品管理的な側面、著者殿打ち合わせに同席して記録を付けたり、書籍の割付や校正、できた書籍の発送などの編集的な側面、広告をイラストレーターでつくるなどの広告部的な仕事、などなど、全般にわたります。


もし、新卒で就職が決まらなかったが、きちんと働こうという意志のある方にぜひ応募していただきたいと思います。


経験者でもいいのですが、その経験が学術書の出版に生かせることが明白でなければ、給与は新卒の方と同じです。ひつじ書房の決めた試用期間が、終了した段階で、経験が生かせているかどうかを査定します。


大学卒あるいは修士卒などの制限はありません。修士の方、歓迎しますし、卒論と同様なレポートを書いたことがあるという方で、学術書籍というもののイメージを持っていれば、短大卒でも可です。


ぐるぐる回って申し訳ないですが、待遇面などの詳細は以下をご覧下さい。

          ↓↓

http://www.hituzi.co.jp/kotoba/kyuujin.html

ことしもお世話になりました。

ことしもお世話になりました。



ことしは激しく揺れた1年でした。昨年の決算がよかったので、調子にのって、2月には私の50歳になった誕生会をやりました。3月は、ここ数年行っていないTCPの発表を聞きに慶應義塾大学の三田キャンパスに行きまして、発表を聞いている時に地震にあいました。5時間をかけて徒歩で事務所に帰り、自宅に帰ってテレビを見て、その被害の大きさに驚きました。そして、原発の爆発とメルトダウンがあって、テレビの報道に釘付けになりながら、政府の説明のひどさに驚きました。しかし、いっぽう、広瀬隆の『危険な話』を大学時代に読んでいる自分としては、食い止められなかったという思いを切に感じました。



震災の影響もあり、書籍の売上げが落ちていることを専務に指摘され、どう対処するかということを悩みました。固定費の削減をするしかないことを認識しまして、倉庫の閉鎖と人数を減らすことを決断しました。倉庫の閉鎖は10月までかかり、人手を少なくし、どうにか軽傷な赤字で決算を迎えることができました。夏には加藤哲夫さんのお亡くなりになる最後の1週間前にお会いし、対談集を出すことを託されました。加藤さんは東北の方であり、震災を受けた東北から日本を救うということを考えていらっしゃいました。それをどうお手伝いできるかは、課題です。



来年は、三井が産休にはいるということもあって、産休規則を作る必要があり、年末ぎりぎりにその前提となる「就業規則作成」の会議をし、社員からも同意が得られたのでおおむね制定できそうなところまでこぎ着けました。これで、零細企業ではありますが、次のフェーズに入ろうとしているところです。零細企業はいつもそうなんですが、山あり谷ありです。



書籍を書いて下さった著者の方、買って支えて下さっている読者のみなさま、売って下さっている書店の方、ことしもお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。


年末の29日に九州大名誉教授でいらっしゃった迫野虔徳先生がお亡くなりになりました。69歳ということですので本当に早い年です。こころより、お悔やみ申し上げます。迫野先生は、ひつじ書房の最初の刊行物である「日本語研究叢書」の最初の予約者でした。第1番目、公費も予約して下さったので第2番目も、先生です。学会ではいつも声を掛けて下さり、たいへんありがたいことでした。もともとの、ご縁は桜楓社時代に刊行しました奥村先生退官記念論文集の時ですので、たいへんながくお世話になりました。

迫野先生のようなかたがひつじ書房を支えて下さった、下さっているということです。ありがとうございます。



展望のようなことは以下に書いています。よろしければお読み下さい。


「2012年12月31日(土)未来の日本語、未来の日本国へ」
http://www.hituzi.co.jp/kotoba/20111231ns.html

覚えとして、自炊代行提訴について

自炊ということばがそもそも、おかしいとおもうのだ。お湯を入れてチンすることを自炊というのだろうか。その日本語感覚に、消費者絶対王権の大きな傲慢性を感じてしまう。




以下のリンクは覚えのため。

私はとても同感です。玉井さんは以下の文章からはじめる。


「今回、「自炊代行」を業とする二社に対して、著名な作家・漫画家7氏が差止めを求める訴えを提起したと報道されています。これについては、「作家は自分たちの権利のことばかりを考えて、読者(お客さん)のことを考えていない」
という批判がなされています。ツイッターでの私のタイムライン上では、これに賛同する賛同する意見が大勢です。

しかし、私はまったくそれには共感しません。」


自炊代行提訴についての雑感 --- 玉井克哉
http://agora-web.jp/archives/1416605.html



福井健策弁護士ロングインタビュー:
「スキャン代行」はなぜいけない? (1/3)
http://ebook.itmedia.co.jp/ebook/articles/1112/23/news009.html



別の視点。私がtwitter上で川添歩さんにおくった文章。↓

( )はここで補足した箇所。

鉛活字が生み出されたのがデジタル革命の第一歩で、複製技術がはじまった。もともと印刷は複製です。今までは物理的障害というか抵抗があって、これまでバランスがとれているという奇跡的状態であり、それが(作家の人々が)崩壊するのを生理的に恐れるのは仕方がないのでは。非論理に理ありと思う。

ただ、複製技術が進歩したのに対して、お金をやりとりする技術がほとんど全く(少なくとも個人にとっては)進歩しないのはどういう理由からなのだろうかと思うのです。複製技術が寺院から印刷所にそして個人に共有されたのに、そっちはいまだに国家と銀行が独占しているという不均衡。

高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために  2

「高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために 」の2,ということで、続編。


高校までの教育で、多くの教育は市民を育てるためでもなく、大学で学ぶことのための基礎力を付けることを目的としている、さらにその教科の先の大学での学科の基礎だ。


たとえば、微積分は経済学にも使えるし、デザインのための曲線をプログラムに書かせることにも使える考え方だが、高校はあくまで数学という学問の基礎として教える。


また、市民を育てるという意味では、税金の仕組み、税金とはどういうことなのか、NPOへの寄付との違い、地域社会の基盤であるし、税金が政府の予算のもとになるというような性格のものであるから、市民としては知っておくべきことであるが、高校までの社会科は、あくまで社会科学の基礎として教えられるので、市民にとっての情報、研究を教えるというふうにはなっていない。


高校までの教育の目的には、その人が社会で社会人として、市民として生きていくための基礎という考え方はないのだろうか。


大学での学びの基礎的なことも教えることも、重要ではあるが、それだけで、自分の生活、仕事、社会と関係ないように教科内容が決められていて、そのことがほとんど疑問視されていない、ということは不思議なことではないか。



自分の生活、仕事、社会と関係ある内容のことを知り、それを地域でアーカイブ化する、高校図書館と公立図書館で蓄積するということは重要なことではないだろうか。



そもそも、大学でキャリア教育をやる必要があるのだろうか。就業支援センターというのはあってもいいけれども、カリキュラムの一つで、支援センター主催の講座がってもいいけれども、大学のコアなミッションとして、就職をさせることを設定するのは、ちょっとおかしいのではないか、などと思う。


就職については、社会全体でサポートするべきことなのではないだろうか。




社会につながるチャンネルが高校や公共図書館にあれば、大学で中途半端なキャリア教育などをやらなくてもいいということになるのではないだろうか。

高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために

市民が政策を決めるのが市民社会である。誰かに決められたり、押しつけられたりということがあれば、それは市民社会と呼ばないはずだ。


しかしながら、もし、それを本気で実現するということについてはほとんど何も具体的な仕組み作りは、行われておらず、消費者としての市民が、買う買わないの決定権を持っているということで、消費者主義的に言うと主権者のような顔をしているというのが、市民社会というものの実態ではないだろうか。作り手としての市民という視点はほとんどないように思う。


よい政策と悪い政策などなどを見るための見方というものをわれわれは学んでいるだろうか。政策を分析する方法をわれわれは、学んでいるだろうか。今の若者達が好奇心も、関心もない、読み書きもマトモにできないという不満を述べるとして、消費者としてしか待遇されてこなくて、大学に入って急に、社会のことを知っていて、参加するそんな人間がカップラーメンのようにお湯さえそそげばできあがりということはありえないことだ。


政策を作るためには、考え方とそしてそれを支える情報というものが必要である。そういう情報が親切にあらかじめ用意されているということが望ましいが、そういうことはない。だから、考えるための基礎的な資料はアーカイブ化され、図書館の蔵書としてあるということはまず第一段階だ。


私はその次の段階を主張したい。こういうことを研究せよ、というリクエストを作り出すということだ。こういっても分からないだろう。必要な知識、研究をリクエストする、どこへ? 今だと学術振興会ではないか。


今、科学者の研究費は学振の中のスタッフとスタッフが読んだ、極秘の研究者によって、申請が審査されて、誰に予算を付ける、どのプロジェクトをよいプロジェクトだと判断するということが行われているのであろう。その中で決定されている。


しかし、そこに市民は参加しているか、参加するチャンネルはあるのかというとしていないし、ないだろう。


そもそも、そういうチャンネルが必要かも知れないと思っている人はほとんどいないのではないか。学振は学振で、大学などの研究者のための予算を国からとってきて、研究者に分配しているということは思っていても、市民・国民の税金を使っているとはあまり思っていないのではないか。



論証のステップをすっとばしていうと、高校と図書館がそういう機能を持てないだろうか。