高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために

市民が政策を決めるのが市民社会である。誰かに決められたり、押しつけられたりということがあれば、それは市民社会と呼ばないはずだ。


しかしながら、もし、それを本気で実現するということについてはほとんど何も具体的な仕組み作りは、行われておらず、消費者としての市民が、買う買わないの決定権を持っているということで、消費者主義的に言うと主権者のような顔をしているというのが、市民社会というものの実態ではないだろうか。作り手としての市民という視点はほとんどないように思う。


よい政策と悪い政策などなどを見るための見方というものをわれわれは学んでいるだろうか。政策を分析する方法をわれわれは、学んでいるだろうか。今の若者達が好奇心も、関心もない、読み書きもマトモにできないという不満を述べるとして、消費者としてしか待遇されてこなくて、大学に入って急に、社会のことを知っていて、参加するそんな人間がカップラーメンのようにお湯さえそそげばできあがりということはありえないことだ。


政策を作るためには、考え方とそしてそれを支える情報というものが必要である。そういう情報が親切にあらかじめ用意されているということが望ましいが、そういうことはない。だから、考えるための基礎的な資料はアーカイブ化され、図書館の蔵書としてあるということはまず第一段階だ。


私はその次の段階を主張したい。こういうことを研究せよ、というリクエストを作り出すということだ。こういっても分からないだろう。必要な知識、研究をリクエストする、どこへ? 今だと学術振興会ではないか。


今、科学者の研究費は学振の中のスタッフとスタッフが読んだ、極秘の研究者によって、申請が審査されて、誰に予算を付ける、どのプロジェクトをよいプロジェクトだと判断するということが行われているのであろう。その中で決定されている。


しかし、そこに市民は参加しているか、参加するチャンネルはあるのかというとしていないし、ないだろう。


そもそも、そういうチャンネルが必要かも知れないと思っている人はほとんどいないのではないか。学振は学振で、大学などの研究者のための予算を国からとってきて、研究者に分配しているということは思っていても、市民・国民の税金を使っているとはあまり思っていないのではないか。



論証のステップをすっとばしていうと、高校と図書館がそういう機能を持てないだろうか。