高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために  2

「高校と図書館が学術的世界と社会をつなぐために 」の2,ということで、続編。


高校までの教育で、多くの教育は市民を育てるためでもなく、大学で学ぶことのための基礎力を付けることを目的としている、さらにその教科の先の大学での学科の基礎だ。


たとえば、微積分は経済学にも使えるし、デザインのための曲線をプログラムに書かせることにも使える考え方だが、高校はあくまで数学という学問の基礎として教える。


また、市民を育てるという意味では、税金の仕組み、税金とはどういうことなのか、NPOへの寄付との違い、地域社会の基盤であるし、税金が政府の予算のもとになるというような性格のものであるから、市民としては知っておくべきことであるが、高校までの社会科は、あくまで社会科学の基礎として教えられるので、市民にとっての情報、研究を教えるというふうにはなっていない。


高校までの教育の目的には、その人が社会で社会人として、市民として生きていくための基礎という考え方はないのだろうか。


大学での学びの基礎的なことも教えることも、重要ではあるが、それだけで、自分の生活、仕事、社会と関係ないように教科内容が決められていて、そのことがほとんど疑問視されていない、ということは不思議なことではないか。



自分の生活、仕事、社会と関係ある内容のことを知り、それを地域でアーカイブ化する、高校図書館と公立図書館で蓄積するということは重要なことではないだろうか。



そもそも、大学でキャリア教育をやる必要があるのだろうか。就業支援センターというのはあってもいいけれども、カリキュラムの一つで、支援センター主催の講座がってもいいけれども、大学のコアなミッションとして、就職をさせることを設定するのは、ちょっとおかしいのではないか、などと思う。


就職については、社会全体でサポートするべきことなのではないだろうか。




社会につながるチャンネルが高校や公共図書館にあれば、大学で中途半端なキャリア教育などをやらなくてもいいということになるのではないだろうか。