言論 国会会議録が救いである!
『市民の日本語』の著者の加藤哲夫さんから、年末のメールが届いた。
12月25日は、田母神論文についても触れました。公権力の行使の地位にあるもの
が、言論の自由を標榜して、公的に積み重ねてきた政府の見解や外国との信頼関
係をぶち壊して懲戒免職にならないというお粗末な幕切れに、後味の悪い思いを
した方はたくさんいらっしゃるでしょう。これは言論の自由問題ではない、とい
うことをほとんどマスコミがちゃんと書かないという情けなさも味わいました。友人に紹介してもらったのですが、村上龍のメルマガJMMの中の水牛健太郎と
いう人の文章「田母神論文問題ーー浮き彫りになる政治とメディアの危機」がこ
との本質を見抜いています。(11/16)
http://12191.diarynote.jp/200811170518523751/
田母神氏が国会に召還されたにもかかわらず、NHKによる放送を要請しなかったために、国会での質疑・論争が中継、ブロードキャスティングされなかったということなのである。国会自身が言論の場であるのに、言論をブロードキャストしなかった。マスコミが言論のための存在であるのなら、自身の存在を失わせてしまうことをしてしまった。この結果、ネットでの言論が、むしろ田母神発言への同情を喚起してしまった。
しかし、国会会議録がある。以下は、小佐野賢治で検索したもの。いずれ、田母神発言も読むことができるようになるだろう。
『国会会議録を使った日本語研究』
http://www.hituzi.co.jp/books/299.html
さて、
芸術崇拝の思想
本書によるとキリスト教による会衆統治にかわるものとして、近代市民社会では、教会の代わりにミュージアムが必要であったよいうこと。『想像の共同体』でいうと印刷技術、マスコミがそうだということになる。両者の関係はどうなのか。
もし、建前的にも近代市民社会が言論によって支えられている社会だとすると、議員というのが、王侯・貴族・文化的な英雄となり、議会が教会の代わりになってもよかったのに、そうならなかったのはなぜなのか。
国会は国権の最高機関ではなかったのだろうか。