書籍の役割

湯浅誠さんの「内閣府参与辞任のご報告(19:30改訂、確定版)2012年3月7日」の中で、ネット上の言論活動に対して、書かれている内容に共感することがありました。そこで指摘されている風潮をどう変えることができるのかが重要だと思います。いろいろなことが書かれているので、この一部にだけに反応することは、まさに批判されている思考方法に似てしまうので、自戒するべきところです。

とはいうものの、一つの点について述べます。ネット上の言論にも反映している思考方法についてです。湯浅さんは、以下の点を指摘します。

○世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎない(ことへの)社会の想像力の欠如
○各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることの欠如

このような風潮があると湯浅さんは指摘しますが、このことを考えると知的な活動について、何らかの工夫が重要であると思います。私の個人的な希望は、書籍や書籍を巡る編集・出版ということが、その問題を少しでも良い方向に向かわせるために大事なことになるのではないかというものです。

ぱっと見て、自分の中にあらかじめある基準で瞬時に切り捨てるというようではなく、受け止めて、自分の判断とは違う考え方を認めて、切り捨てない発想。それはフローのメディアというより、ストックするメディアの方が親和性が高いのではないかと思うわけです。立ち止まる発想と呼びましょうか。

フローのメディアであっての、ストック的に使うことはできると思います。ストック的ということにも価値を見出すかという点が重要ではないでしょうか。

ネットに情報・言説を公開できることだけでは、望ましい「参加」が約束されるわけでもないし、「知的活動」が促進されるわけではないということです。あたらしいメディアが出来て、その可能性と重要性は認めるわけですし、期待もするわけですが、それで解決になるわけではない以上、従来のメディアをどう使うか、組み合わせて使おうという発想は当然のことだと思うのですが、ネットさえあれば、それでよいという風潮はとても強いもののように思います。

いつも申していることですが、「あれかこれか」ではなくても、「あれもこれも」じゃないか、棲み分けるのではなく、棲み合わせる、ということではないか、と。

現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、より思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなのであって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます。


 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめて不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブログでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このような態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへの競争状態です。


 容易に転換しそうにないこの風潮をどうすれば変えることができるのか、私にはまだよくわかりません。ただ少なくとも、このような局面で社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けないためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げていくために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的にコミットすること、そして自分という存在の社会性により磨きをかけていくことではないかと思います。それが、私の考える「社会運動の立ち位置」です。

http://yuasamakoto.blogspot.jp/2012/03/blog-post_07.html