日本語の国語教育の目的

慶應義塾大学英語教育/言語教育シンポジウムに参加しました。

このシンポジウムの主旨を強引に私なりにまとめますと、簡単に言うと英語教育でコミュニケーション重視ということが提唱されて、結果として文法についての授業が行われなくなり、さらにその結果として英語を学んだり、使ったりする力が、生徒の側に失われてきているので、あらためて文法教育を再評価しようという議論であったと思う。私が面白いと思ったのは、鳥飼玖美子先生の発表でコミュニケーション能力という議論が文化人類学者ハイムズ以降言語教育の研究で議論されてきたが、ハイムズ以降の研究でも文法能力という項目外されたことはなかったのであり、コミュニケーション能力において文法が重要であることは疑われたこともなく存在していたのに、教科レベルでは文法が後退してきたという歴史があり、テーマは文法教育を取り戻そうではなく、どのような文法教育をどのように教えるかということであるはずだ、という話しでした。
面白かったのは日本語教育に当てはめてみると、コミュニケーション重視というとアンチ文法ということになってしまいがちなので、英語教育での間違いを日本語教育は学ぶべきであろうと思いました。

シンポジウムへの感想はここまでです。

しかし、英語教育ということを考えた場合に、その目的、使命というのはどうやって考えられてきたのだろうか。コミュニケーション重視であるとか、小学校で英語教育を行うとか高校の英語の授業は英語で行うことを原則とするであるとか。基本的に文科省と諮問機関的なところがその方向をこれまで考えてきたということになるのではないだろうか。その決定について対して言論の自由として意見をいうことは可能であっても、政策に影響を与えるあるいは関与するという意味では、ほとんど英語学者、英語教育学者、現場の教師、親、子どもたちの意見は反映してこなかったのではないだろうか。
言語政策というものは、誰が決めるのか、という疑問が浮かんでくる。

言論の自由があるという意味で、日本は民主主義国家といえるであろうが、政策に関与するという意味では、民主主義国家と言えるのか、というのが私の疑問である。私がここで申し上げているのは、政策を決めることについて国民が関与するあるいは決定することまでが入らなければ、民主主義国家と言えないのではないかということを申し上げているのである。

さらには、本来、地域地域の教育委員会が、その地域の教育の目的や実施方法を議論して、決めていくということであったはずなのである。それは民主主義の原則とは関わりないというのだろうか。

もし、地域の教育委員会が言語政策を決めるとする。地域によって、どの外国語を学ぶかという点から、地域ごとに優先度が変わるかも知れない。地域によってどういう職業に就くことが想定されるかによっても変わってくるかもしれない。農家が多いのであれば、農業に関係する英語の方がいいかもしれない。教科書は多文化とはいうけれども、職業的なバリエーションについてはどうなのだろうか。

職業選択の自由ということが重要だが、ニュートラルといいながら、結果として事務的労働者を生み出すのに適した外国語を学んでいるのではないか。

話しが飛躍するが、「義務教育の終了までに国民として国の政策、市の政策を理解し、作り出せるための日本語でのコミュニケーション能力を付けること」が、日本の国語教育の目的ではないかと思うのだ。