1998年4月30日 大道芸人をめざそう

ひつじ書房は、スリムになろうと思います。浅草に10年以上も借りていた倉庫を引き払おうと決意しました。引き払った在庫は、一部処分しまして、さらに事務所に移すことにしています。そこで、事務所の書類整理を敢行しています。在庫の処分は、とても悲しいことです。不甲斐ないことでもあります。出版人としての無能さを思い知らされることでもあります。

私は、1998年に投げ銭システムというものを提唱したのですが、写真はそのシンポジウムの際の投げ銭受け入れ用のものです。当時、社員だったKさんの友人で、芸術家の卵だった方に作ってもらいました。引用した文章は、私が1998年に書いたもの。実は、兵藤裕己さんの琵琶法師の研究に影響を受けています。






1998年4月30日 大道芸人をめざそう

大道芸人は辛い。パフォーマンスがうまくて、お金を払ってやろうと思わせなければ、だれも空き缶にコインを投げ込んでくれない。劇場のように入場料があるわけではない。道ばたでたまたま、芸が行われているのに遭遇して、足を止める。芸がそこそこ面白いだけでは、だめだ。こいつに100円でもいいから、お金を払ってやろうといく気持ちになってもらわなければならない。楽しませるだけではなく、財布のひももゆるめないといけない。こいつにはお金を払ってもいい、こいつが生きけた方が、世の中が楽しいと思わせたらしめたものだ。いつもよりも多くのお金を払ってくれたり、豪華な夕食をごちそうしてくれるかもしれない。

なんで、大道芸人の話と思われるかも知れないが、現在のWEBの情報発信は、大きな通りで、芸を延々と見せている状態に近い。だれか、後ろに旗を持って立ってくれる広告主が現れない限り、その芸にはだれもお金を払ってはくれないのだ。もしかしたら、ちょっとばかりカンパしてやろうという気持ちも見ている方にはあるかもしれないのに、そこに空き缶や帽子が無いためにお金を投げ入れることができないのだ。芸人も、そこでなにがしかの金銭が得られれば、生活の基盤をシフトすることができる。他で稼いで、その分、芸に回すのではなく、芸だけで食えたり、あるいは「副業」にかける時間と労力を減らすことができる。また、投げ銭を受け入れることは、批評を受け入れることでもある。励みにも成るし、頑張っているページが生き延びることが出来るすべとなる。

もし、この「投げ銭」システムが、軌道に乗れば、大げさな課金システムもいらないし、組織に依存しなくても、生きていけることが可能になる、NPOやボランティア組織も生き延びやすくなるというものだ。現在、大勢となっている集金システムとは全く違ったお金の流通のシステムができれば、もっと自由になれるだろう。また、この方法はインターネットとも親和性が高いものだと私は信じている。親和性が高いといっても、無料なのが正しいという考えとビジネスにならなきゃ意味がないという声の2極に分かれている現状では、同意してもらえないかも知れない。この点については、2極とは、異なった論理こそが必要なのだ、ととりあえずいっておこう。分かる人にはすっとわかるが、そうでない人には時間がかかる。今日のところは、置いておくが、このシステムが稼働するかどうかで、インターネットが面白い、市民のものになるのかが、決まると言っておきたい。