コースの乗り換え可能性を担保できるような外国語教育

ユーザー志向の言語教育にしようというキャッチフレーズはよい。


今までは、大学に進学する人ばかりではなかったのに、大学進学率は実際には低かったのに、大学で原書を読むという前提で、読解中心の英語教育が行われてきた。どうなんでしょうか。20年前くらいまでは。


そのあと、英語教育はコミュニカティブの時代となり、コミュニケーション中心になった。そうすると、全ての英語学習者は、大学に進学しない人もいるわけだから、全ての人に使うシーンのある英語を学ぶと言うことになり、平等性は高まったわけだ。また、ユーザー志向となると、ユーザーがこういうことをしたい、という発案があって言語のあり方が選択されることになる。


海外旅行で、簡単な英語を話したいというニーズに対しては、そういうものを教えるということになる。これはこれで、万々歳のように思われているかもしれない。


ユーザー志向だから、その人が望まないくらいに正確であったり、するのを教えるのは傲慢であると言うことになる。無理矢理はひどいというのはもっともだ。しかし、先日の国立国語研究所で行われた日本語教育関係の研究会で、学習院大学の金田智子先生が、ブラジルから日本に来た女性が、たとえば、自分で銀行口座を作るような場合に日本語が必要だと思いますか、という問いに、夫にやってもらうので、別に必要ありません、と言ったという報告をされていた。私は、その場合に、それで万々歳と言えるのだろうかと思いました。私は、そのくらいは、本人が必要と思っていなくても、学ぼうという気持ちを持ってもらいたいように思うのです。学習と強制というなかなか微妙で面白いテーマに関わります。また、自分のニーズは本当に分かるのかという、ニーズの主体は誰か、ということ、今の私が、10年後の私のニーズを考慮できるのかという問題がある。


「振り返れば」  円丈自伝的大馬鹿落語。今の円丈と46才の円丈と26の自分が、大喧嘩をする。ありそうでないストーリー。

http://enjoo.com/fan/event_1.htm


さて、利用者志向はいい点もあるのですが、危険な点もあります。どうせ大学に行くことはないのだから、簡単な会話ができればいいという発想の場合に、階層的な分割というのが固定される危険性があるということです。


私が思うのは、ベースは利用者志向でいいと思います。本人が望まないものを学ぶことは困難だからです。でも、もし、その人が英語で本が読みたい、あるいは大学に言って何か研究的なものを追求したいとある時に思った場合に、そっちの線路に移れるための基礎的な英語力は、ある段階の際には本人がかならずしも志向していなくても、教えるということは必要なのではないか。



ガチガチの硬い文章を読むと言うことではなくていいのですが、コースの乗り換え可能性を担保できるような外国語教育は、作れないものでしょうか。コースの乗り換え可能性を担保できるような外国語教育については、神田外大の長谷川信子先生と話しをしていて考えたことです。

こちら。http://d.hatena.ne.jp/myougadani/20110226