『團十郎と歌右衛門』(中川右介 幻冬舎新書)を読んだ。

團十郎歌右衛門』(中川右介 幻冬舎新書)を読んだ。アメリカへの長旅で、長めの新書を持って行ったのだ。あまり、期待しないで読んだが、思いの外面白かった。

歌舞伎初心者の私は、菊五郎劇団ということばを知り、戦後、歌舞伎が国家によって芸術と認定される前の、いろいろな事件や、松本幸四郎たちが、東宝の元に走ったことなどを知ることができて、背景を知ることができた。芸術は芸術だけで、鑑賞すべきだという意見もあるだろうが、背景の事情を知っておいた方が分かりこともある。

それから、その本で紹介されていた三島由紀夫の「中村歌右衛門序説」を読みたくなって、全集を買ってしまった。全部ではなくて、31巻だけだが。三島には偏見があって、遠ざけていたのだが、評論はとても面白いし、文章に切れがあって、もっと早くに読んでおくべきと悔やんだのである。

この間も四天王を国立劇場で見たけれども、パンフレットには菊五郎劇団は...と書いてあって、菊五郎劇団という考えは今でも残っている。そういう目で見ると、国立劇場は、12月の忠臣蔵には幸四郎が出ていることからするとそうか東宝系なのかと思い当たった。

團十郎歌右衛門』で書かれている松竹の團十郎に対するマネージメントはひどすぎる。かつてはそういう時代もあったということか。

團十郎は、神話の中を生きる役者であり、近代的な市民的な倫理観に治まらない存在であった。とすると、このあいだの海老蔵の事件はもったいない。もう少し、近代を揺るがすような神話を作るべきところが、単に面白くない説話となってしまった。せめて、寓話になるくらいの荒唐無稽さがあってほしい。

しかし、神を地面に引きずり下ろしたいマスコミ的にはテキーラが丁度良かったのかも知れない。