書籍にページレイアウトは必要か?『電子書籍の真実』

書籍にページレイアウトは必要か?『電子書籍の真実』
村瀬拓男



歌田さんの「電子本ほん」がライターの立場からだったとすると、村瀬さんの本は、実際に日本語で書かれている書籍の内容を画面に表示すると言うことをしてきた人、書籍のページ面の表示にこだわって仕事をしてきた人と言うことになるだろう。新潮社「新潮文庫の100冊」をボイジャーといっしょに格闘して作った方である。


歌田さんが、アメリカで基準となるといわれるePubが、日本語に対応するのは時間の問題と簡単に書いているのに対して、そもそも、米国の基準であるePubが日本に対応するかは現時点では不明であると述べていた。ここでことわっておくとアマゾンはePubとは違った仕組みを使っていることに注意しておこう。


ソフトウェアの会社ができますというのと、実際にできるということのあいだには月と地球の間くらい違っているというのは、DTPソフトをずっといじってきた人間の感想だし、実装されるということ、実現されるというのはそんなに簡単ではない、という思いは、実際に仕事をしてきた人の発想で、私には腑に落ちる感覚である。


ライターの人にとって多くの場合、組版は空気のようなものであり、見えないものであるようだ。その違いが面白い。歌田さんの本から読み取れるのは、 テキストデータ付きpdfでも、電子書籍と考えるという立場だが、村瀬さんは、それでは電子書籍というふうに積極的に言いにくいのではないかという立場のようだ。書籍として実感するのはどういう体感なのかについてのライターと制作者の違いもあるわけだ。


新潮社の文庫の組版を再現するのが、非常に大変であったわけなのだが、文庫はある意味では文字主体ということでは、電子的なテキストにしやすいし、画面の縦横や文字の大きさで段落の文書が流れても、アルゴリズムで対応しやすいとも言える。

これは、学術書ではそうはいかないこともある。一般的な書籍よりも遙かにむつかしいことがある、ということを考えると村瀬さんの危惧はもっともっと大きなものになるだろう。