桂川連理柵 ちょえもんさんが

桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)を見に行きました。9月の第1週でした。


私が今文楽にはまりつつあるというのと、花季藤子先生にいま端唄を習っているのですが、「お伊勢参り」でちょえもんさんがという桂川連理柵を題材にしたところがあるので、どういう話しかなと思いまして、この9月にやるというので国立劇場に行ってきました。(芸事には詳しくないので私がおかしなことを言っていても藤子先生のせいではありませんことをお断りしておきます。)


端唄は、当時の流行歌ですが、当時の教養の相互作用なんですね。他の芸能のトピックを唄に組み込むんですね。流行歌と入っても、ラジオから流れてくるのではなくて、流行れば唄うわけです。端唄のちょえもんさんは、悲劇と言うより少し暖かい視線が送られています。可愛いこどももできちゃって、のような感じで心中モノという悲惨さは感じられません。それが端唄のおおらかなところでしょうか。


見たのは国立劇場ですが、長い間見続けている方がいるのですね。始まる前、となりに座っている女性が、桂川がはじまったら私は帰っちゃうからとそのとなりの女性と話しをしていました。その方は、その日の太夫と三味線方はその方のお半ちゃん像に会わないので帰っちゃうと言うのです。凄いですね。役柄の方が好きだとは。いくつものバージョンを見ているのでしょう。


しかし、その発言が耳にこびりついて、先入観となってしまいました。そういう批判的な目で見ると物足りないなあと思いました。お半ちゃんはもう少し危険な、危なっかしい感じがあった方が良かったように思います。14歳の子どものような小娘が強引に恋を実らせて、そのお店を任せられているような成人男氏を結果として破滅させますし、ちょえもんさんも、意識しないで小娘に惚れられてしまう、まじめな商売人の中に隠されている何かというようなものがあって、こっちも危険な男としての魅力があるはずだと思うのですが、あまり感じられないように感じました。人形遣いではなくて、太夫と三味線の方が微妙さが不足していると感じました。文楽を聞く、見る耳も目もまだまだなので、これは仮説です。他の方が太夫と三味線、人形遣いをされている時に改めて見に行きたいと思います。


文楽初心者として、となりの女性のことばに影響されてしまったのかも知れません。最後の道行きは、何本も並んだ三味線も壮観でかつ音も良かったし、悲劇感がでていて、凄いなと思ったのですけれども。