日本語教育学会パネルついて

この秋の日本語教育学会パネルについて、コメントします。


次のパネルであるが、菅正隆という方と大津先生を同席させるというのは何か考えが合ってのことなのだろうか。菅氏は、もとは文部科学省の官僚であり、小学校英語教育の推進者と聞いている。一方、大津先生は小学校での英語教育導入に反対の立場であった。


パネルはいろいろな立場の方がいてよいわけであるが、話しが複雑になるのではないか?


私は日本の言語教育が迷走する理由として、3つあると思っている。

  • 1 国民レベルで言語教育政策に無関心
  • 2 現場の教師たちから言語教育についての発言がない
  • 3 文部科学省が政策を頻繁に変える


この中でも3が大きいと思う。とすると菅さんの言語政策の方針については大いに異論があるわけで、ケンケンがくがくするのが目的ならいいが、もし建設的な議論をするのなら、かなり無理があると私は思うのだ。


主催者は、小学校で英語教育を盛んにして、外国語としての日本語教育も小学校からしっかりやろう、という方向に話しを持って行きたいと思っているのだろうか。そのような考え方もあり得るが、かなり極端な意見ではないだろうか?そういうのとは全然違うのか?


私は、日本語教育を国語教育と協調するように、教育政策を変更することが望ましいと思っています。平田さんの考えに近くて、言語技術教育と言葉の芸術教育にするのがよいのではないかと大筋考えています。文学教育をレトリック教育よりにするとしたら、もしかしたら、言語技術かも知れませんし、美的・表現的レトリックであるのなら、言葉の芸術教育でしょう。いずれにしろ、教育政策をどう決めるのが理想的であるのか、ということそのこと自体をどう作り出していくかという戦略的な側面も重要でしょう。文科省がいろいろとトレンドを作って、学校や大学の現場が混乱すること自体容認できることなのかどうか、というところから議論しないと。


戦略的に考えると細川先生たちのパネルもどうもいまさらという気がします。10年一日。国立大学の留学生センターが廃止の方向になっている今の時代に現実的なテーマなのかどうか。教師たちが教えない教えないと言っていたら、職場はなくなるでしょうから。すいません、勝手なことを言って。聞いてからちゃちゃを入れるべきですよね。


そもそも、どれを聴きに行こうか、あるいは聞かないか。私は、教えない的な立場の発表については、教えない派の総帥の弟子にひどい目にあったので、ネガティブに受け止めてしまうのです。


私は、人文科学系の過剰な自己批判的研究には否定的です。都立大学の文学部がなくなったようなことを自ら招くのはどうでしょうか、という立場です。社会学は残りましたが、文学研究と言語研究は極度に削減されてしまいました。

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日本語,国語,外国語教育の連携・協働と言語教育の将来について展望する

  • 複合領域としての日本語教育の発展と応用を目指して-

野山広(国立国語研究所), 井上一郎(京都女子大学大学院),
菅正隆(大阪樟蔭女子大学), 横溝紳一郎(佐賀大学),
大津由紀雄(慶応義塾大学)