当事者意識の難しさ

当事者意識があることで、自分が、関わりを持って生きていることを実感できるし、他人任せ、責任転嫁しないで、まともな生き方ができると私は思う。


出版社としての当事者意識とはと問うとそれはなんだろう。これについては、自分への問いと言うことで、別の機会に考えることにする。


関わりを持たなければ、責任もないし、失敗もないし、軋轢もない。関係ないんだからと言えばすむから。といってそういう身の置き方は、解決ではなくて、脱退のように思う。関知しない。


関知しないの逆は、ある種の共同性ということになる。今、牧野由香里先生の「学びの共同体」を巡るドキュメンタリーの本を進めている。原稿にコメントを入れて、お返ししたところである。たいへん、失礼なコメントをたくさん入れている、お許し下さい。「学びの共同体」を学校に作るというのはどういうことなのか、もし、一人で学ぶ方が効率的であるなら、共同体は必要がない、なんでわざわざ、となりの子の考えを聞いたり、相談したり、となりの子の学びを見たりしないといけないのか。教室の意味がそこにはあって、共同性の中で学ぶことの意味があるから、「学びの共同体」ということを何とかしようと頑張っているわけだ。


これに比して『いじめの直し方』(内藤朝雄荻上チキ)の教室に対する視線は別のように思える。流動性がないことはいじめの原因であるという、それはそうとして、巻き込まれて、移動できにくい環境から身を脱することができるようにすることがいじめの直し方であるというように読める。そうかもしれないが、人と関わることによって起こる学びはどうするのだろうか?


そもそも、自分である場所から、容易に身を抜け出せるような人はいじめとは関係がないだろう。自信がない。頼らざるをえない、依存してしまうというところにいるから、いじめられるし、いじめてしまうのではないだろうか。いつでも身を抜ける人はいじめられないのではないか、「あなたにいじめられる責任はないよ、周囲が悪いんだから、自分を責めないで」というのは全くその通りだが、いつでも周囲から抜け出せるというためには自信がないと難しいのではないか。


当事者意識も、同様に責任感の源であるということとその組織に縛られるという危険性の両方の面がある。しかし、当事者意識が皆無なのはどうなのだろうか。



「所在が都内の113歳最高齢者、長寿国日本は幻かと思えてくる。各自治体、きっと一斉に最高齢者の確認中」(2010.8.3 朝日新聞夕刊 素粒子



裏を取らずにそのまま報道していたことについてはどうなのだろうか。