残念なり方言研究会 研究書を売る機会は重要

残念なり方言研究会


いつも学会に行って本を展示することをしています。その学会で展示することを目指して、日程をやりくりしたり、作業を追い込んだりして本を作ると言うことも多くあります。


本を展示して、手に取ってもらって、買ってもらうというのは、学術書の場合、単なる商いではなくて、その本に込められた研究の成果を広めるという意味を持ちます。たとえば、研究会で発表して、研究が注目され、そのテーマに関連するシンポジウムを開催し、書き手が集まり、発表し、その場でフロアーに人と議論をし、そして、やっぱりまとめて読んでもらおう、内容を批判、評価してもらうようにしようと決意して、それでは実際に具体的に研究書にまとめていこうという機運が生まれ、それでは原稿を作ろうと言うことになって、出版社を巻き込んで目次を決めます。


どのくらい、労力をかけ、どのくらいコミットするかはその本の内容や出版社側の状況や担当者の力量によりますが、研究者以外の人間、出版社の編集、組版を行う組版者、印刷所の担当者、装丁をすることになれば、デザイナーさんも関わります。ここで大事なのは、外在化するということです。それが対象化であり、客観化です。


研究会で発表されて、論文になったということだけでは議論は行われても内輪のモノになりますし、実際に具体的な議論は行われないにしろ、外側に見ている人がいるということは、他人の目を気にするということであり、そのことが、私は内容を一段階優れたモノにすると信じています。


そうして時間と手間、研究者の研究の発展の時間と労力をかけ、それでできあがるものが研究書なのですね。


また、実際に手に取ってもらった研究者の方のリアクションを実際に目の前で見ることによって、そういう研究書を出すことが意義があることであったのか、そうではないのかということを感じることができます。


通常、方言研究会はそういう場所を出版社に提供してくれるとても出版社にも近い研究会でした。それが伝統だし、存在の仕方であったはずです。


それが今回、出展する場所がないという。せめて見本を置かせてくれないかというと、連絡するのが手間が掛かる、、、、。どういうことでしょう?そういうのは最初から、考えの枠の中に入れて置いて下さるのが、前提ではないのか?


本を出して、本を売っていく、そのような学術出版社のあり方に理解がないのであれば、困ってしまう。売れなければ、次に進めないので。


正式な抗議文を出した方がいいのだろうか????