日本の言語教育の目的を明示化することが必要ではないだろうか

日本の言語教育は、こういうことを目的にしてやっています、ということをあまり言ってこなかったのではないだろうか、などと思います。

そのために外部から、急に小学生から英語に馴染ませれば、日本人は英語が得意になるはずだから、授業を必修化しろ、と言われてしまうのではないか。これはそれを求めた経済界とそれを政策にしてしまった人々に問題があるようにも思う。

外国語を学ぶためには、第二言語の場合は、第一言語を習得した上で、理屈がわかるようになってから、学ぶのが効率的であるので、そういう能力が付いた若者に外国語を教えて、その結果として、読み書きでいうと60パーセントの学生が●●レベルを達成することを目指している、などと明示的に発言してあれば、それを踏まえて議論できるのに、そうではないので、必修化を求める人々は自分が大学生になって英語が話せなくて困ったというトラウマ(?)から、感情的に言ってしまうようなことが起こるのではないだろうか。

学校教育は、実務的な要素と大学への進学への準備とが入り組んでいて、何となく学んでおいた方がいいんじゃないの、くらいの曖昧な目的しか見えない。

今はこういう教育方針でこういう教育を行っています。この事業はあと2年あります。小学校英語についてはそのあとに対応します、のようなことが言えればいいのに。

国民教育、義務教育、そして学校教育は何のためにあるのか、ということはあまりにも自明のように思われていて、明示化されていない。

国語教育で、主語が教えられる理由は何か。日本語は主語についてはいろいろな説があって、角田先生がおっしゃるようにおおむね主語を認めた方が議論がしやすいというところだろう。いろいろと議論のやり方はある。でも、日常生活で必要なことは、その当該人物は誰かを知りたい、ということなんじゅないのか。

たとえば、編集部で電話が掛かってくる。部下が私にこういう。

「○○という本はいつ出るのかと問い合わせの電話です。どう答えたらいいですか?」と聞いてくる。その時、私は、誰からの電話なの?と聞きます。というのは、出版社に掛かってくる電話はいろいろとあります。書店さんからだったり、読者の方からだったり、著者の知り合いの方であったり、あるいは同業者であったり…。それぞれで、答え方が違うことがあります。

書店の方からであれば、それは注文であることが多い。読者の方は本を探していて、発売されていれば、購入しようと思って下さる。著者の知り合いの場合は、ちょっと複雑で、もうすぐ本がでるところで止まっていた場合に、著者の方の代わりにそれとなく進行状況を聞いてこられたという可能性もある。直ぐ出ますと答える方がいいのか、もう少し掛かりますと答えた方がいいのか、というように誰がというのは非常に重要なんです。

私にとって主語を明示的に使ってほしいと思うのはそういう時です。

これは、何かを作ったりしている仕事場では主語を入れて伝えてほしいということです。受け答えに失敗すると問題が起こる可能性があるという場合です。日常的にはあまりないのかもしれません。

主語が明示的であった方がいい場合というのは他にもあるでしょうか。主語という考え方を教える必要性はどこにあるのか。英語を学習するときに便利だからなのか。まとまった文章を矛盾なく書くことができるようにするためなのか。



さて。