日経新聞 活字の海で 問われる学術出版の意義

日本経済新聞読書面10月18日

活字の海で 問われる学術出版の意義

この記事で私の発言を取り上げてもらいました。私の発言の後半部分は、以下の通り。


「助成にあぐらをかいてはいけないし、専門的な知を社会に開く学術書の価値をきちんと説明してこなかった反省もある。」松本社長はそう前置きしつつ「コストの全額は必要ないが、一定の支援があるのが望ましい」と訴える。



私のことばの後、岡本真氏の「助成に頼る出版社は淘汰されるべきだ」との発言が載っていた。



(以下、少々怒っているような文章になっていますが、そんなに怒っていません。この文面がよけい怒っているような感じになっているかもしれない。困った。)





このような発言が、ひとつのあり方としてこの世の中に存在していると記者の方は思ったのだろう。淘汰ということばは、いさましくて、新自由主義的だ。リソースという考えにはたぶん編集や出版は関わらないだろう。リソースとブックは立っている場所が違うのだろう。


場の論理ですべてを解決するというのは潔いことだろうか。好きなコトをやっているのだから、そのことを公共的な力で支援する必要はない、という考え。もし、そうであるなら、健康保険も100パーセント負担する方がよいだろうし、イタリアで行われているようにオペラの入場料を税金でその大部分を負担する必要もない。個人に益することに公的支援は必要ない、文化的なものについても支援は必要ないという考えはありうる考えではあるが…。文化政策、芸術製作、学術政策というものが、あからさまなかたちになっていないことが問題かもしれない。そういう議論は、役人の中でしかされてこなかったから。平田オリザさんが、内閣参与になったことは重要なことだし、学術政策学というものは必要なのではないか。私がやるべき?


デジタル化し、市場にまかせればよいといういさましい発言の方と一方、多くの人々は無関心だと思われる中、どのように説明することがよいのだろうか。そもそも説明をする場所を作ることが可能なのだろうか。どうなのだろう。あるいは、多くの人は、いさましくも、シニカルでもなく、静かに見守ってくれているような気もする。


ネットの市場が小規模な企業組織に少額決済が可能になる、というような土俵がないところで、デジタル化して公開すればいいという発想はどうなのか。それゆえ、私はネット上の経済の自由化(その当時「投げ銭システム」と呼んだ。)の必要性を訴えたわけでもある。

P.S.
岡本氏が、自分の考えを表明するのは自由だけれども、K書院のOくんとかさ、岡本君の発言を神託みたいにありがたがるのが、私の理解を超えている。(書いちゃった!)