ノスタルジーではなくレシピとしての活版

澤辺由記子さんのトークを聞きに表参道のutrechtに行って来ました。青山のビルの2階、テラスがご飯を食べることも出来るようになっているオープンな感じの気持ちのよい洋古書店でした。


http://www.utrecht.jp/


utrechtは、本を紹介したい、本を書いた人を紹介したい、とのことで、その結果、アーティストの本、作品を取り上げることが多くなってしまう、とのことです。utrechtのあり方自体がアートかと。



澤辺さんのトークは、優しくかつ情熱的で、話しの内容と語り口に魅了されました。活版に取り付かれたミューズ、あるいは、語り部なのかもしれません。神がかっているという意味ではありません。あくまで、冷静で、理智的ではあるのに、ひきこまれるのです。

活版の魅力は、活字の圧力にあるのではないか、との質問に、本来的には、活版も均一を目指していたはず、との答えは、冷静なものです。中途なノスタルジーは、無縁のようです。ノスタルジーではなく、活版を愛するとしたら?その可能性を探しているように感じました。私は、活字圧というありきたりの活字賛歌に同意しないし、賛美者に対しては私の経験した活版の組版は決して美しいというものではなく、劣った技術であったということを言わざるを得ないとは思います(共信社さんはそんな上手ではなかったと思う。『風の歌を聴け』だってまあまあだ。)が、デジタル技術が導入される前、情報が劣化しないということの意味を体験する前の印刷工が、かすれのない印刷を志向していたとしても、デジタルの時代になって、ノイズの意味があらためて問われるようになったということからすると活字のノイズというものについては、改めて考えることの意味はあるように思います。



文字としての活字ではなく、行については、作品にされないのでしょうか、とお尋ねしましたが、活字と活字の間の空間を大事に考えていて、空白を無視して仕事をしてきたということは、ない、とのことでした。私にとっての活字は、あくまで書籍を形成するための重要な因子なので、行やページ組をどう捉え直すか、美的にであっても、仕事としてであっても、産業としてであっても注目してしまうのです。私の文脈に引きつけすぎた質問になってしまったと思います。もう少し丁寧に質問ができればよかった、反省しています。

わたしは、書籍や読書する場所のものとしてのあり方を考えています。ブログやgoogleが書籍を変えるかというデジタルの世界観の中でよりも、あるいはテクノロジーマーケティングよりも、場所や手触りや居ごごち、というものを捉え直してみたいと思っているところです。

http://temppress.blogspot.com/

澤辺由記子さんの作品の「私の馬棚」(http://temppress.blogspot.com/2009/07/blog-post_19.html)、馬というのは活字箱の意味ですが、その写真は内外活字印刷の写真です。内外活字印刷は、実は少し縁があって、旧国立国語研究所の正面じゃない方の門の真向かいにあったんです。国立国語研究所は、立川に行きましたが、内外活字印刷はまだあります。