『新世紀メディア論』2 書籍に帰ってくる

書籍に帰ってくる

『新世紀メディア論―新聞・雑誌が死ぬ前に』(小林弘人 バジリコ)という本で、著者の小林氏は、新聞や雑誌は、インターネット時代において紙とネットが融合してしまうのに対して書籍はそうではないという。
「書籍は(特に有体物としてのそれは)、その冗長さゆえメディア・コンバージェンス(収束・融合)の流れから独立して存在することが可能な、完結したメディア」という。メディア・コンバージェンスということばが、よく分からないが、1つのまとまりではなくて細切れになった情報の場合は、気分でキーワードで検索して見つけられたらそれで終わりだったり、見つけた情報で購買したりするといった実務的なこと・感覚的なことに役に立つか立たないかで価値が判断されたり、情報として消費することが可能という意味だろうか。そういうものは、コンピュータのプログラムによって処理されてしまいうる。趣向やプログラムに基づく分類によって配列され、その配列のアウトプットが面白いかどうかが勝負になる。
書籍はそれらに対して冗長だということだ。即効では役に立たなかったり、理解するのに時間が掛かったり、直ぐには分からないけれどもじわじわ理解をしたり、説明やストーリーが単純ではないようなものという意味だろうか。
ネットのご神託をありがたがるという気持ちは毛頭ないけれども、冗長さということばは確かに頷かせるものがある。簡単には要約できないもの、読むのに時間が掛かるものといってもいい。まさに学術書は冗長の固まりと言っていい。そういう要約の難しいもの、キーワードで検索して、何かの頻度で配列されてしまわないものとしての学術書を出していきたい。単純化できない人間に即した書籍というのは情報が氾濫してしまっている現代、かえって貴重である。国会図書館のネット上の閲覧ということも、10年前に予測して、その時どうするかということが、すでに私のテーマであった。(松本功ルネサンスパブリッシャー宣言』参照)それ以来考え続けてきた答えは、交換可能な情報ではなくて、愛着とか応援とかそういうメンタルな部分に立ち戻るということであった。それは冗長さともつながるモノとしての大事さということである。私は、時代は間違いなく書籍に帰ってくると信じているのである。

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現在、制作中の『未発』21号の改稿中の「房主のことば」

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そう考えるともし、書店が、メディア・コンバージェンス(収束・融合)を行う場所になることができれば、メディア・コンバージェンスにとって、ネットだけでは完結せずに、書店もそのフローの流れになり、雑誌や書籍自体のメディア・コンバージェンス(収束・融合)を目で見れる形にデザインできるのであれば、そこは中抜きできない場所になるのではないか、そういう考えはあり得る。