21世紀の新聞の意味 新入社員教育に使おう

友人の新聞記者と話しをすると、新聞ビジネスは構造的に厳しいという話しになることが多い。でも、私は21世紀の新聞の意味というのはあると思う。

googleで検索すると、FirefoxSafariで検索結果が違っている。Firefoxでは、googleの検索結果を人が順位を変えることができる。ということは個々人によって得られる検索結果が違うということである。

ネットの情報は、検索して見つけるものだから、その人その人で違うものを見ることになる。ネットの新聞サイトも基本的に、好みによってカスタマイズできるから、同じ日の同じ時間にアクセスしたといっても、同じものを見ているとは限らないということが起こる。ネットというのはそういうものだ。

だから、共有されるあるいは公共的な情報というものが、ネットでは得られにくい。

これまでは、新聞のようなメディアしかなく、結果として公器という役割を担っていた。しかし、これからは「公器性」というものを作っていくしかないだろう。立場を越えた人が、参照するメディアに。そうすることによって、意図的な公共性を作り出す。たとえば、20代の新人と40代後半の私が、同じ新聞を読んでいるということで、同じ事件について、議論をすることができる。ある程度共通に知っていることを説明することで、説明することのやり方を知る。そういう積み重ねが重要であり、世代を超えたコミュニケーション、新人を社会にきちんと招き入れることのために新聞は有効だ。特に新入社員といえるような時期には。新人時代に新聞を読む習慣を持つと言うことは大事なことで、そのことは10年たって読んでいる人と読んでいない人では、力の差は歴然だろう。


追記

ただ、ブログとは違うということを新聞記事は語る必要がある。その事件の意味や重要性というものを、社会的・公共的に判断して事件にしなければ、そうじゃなければ、単なるブログと公共性の度合いで、本質的に違いはないということになってしまう。警察が捕まえたから、財務省記者クラブで公開したから、官僚が何気なくリークしたから、ということでニュースバリューがあると判断するということは新聞記事にとって愚かなことだ。

じゃあ、どこに公共性・社会性があるという判断をするのか。記者と新聞社のちゃんとした教養と知性と野次馬的好奇心でしかありえないだろう。なぜ、それを記事にし、事件にするのか、単に新聞がそこにあるからということでは、単にネットがそこにあるからというブログと規模の大小以外で違いはない。そうであれば、そんな記事をお金を払って読もうとは誰も思わないだろう。

プロフェッショナル性を知性の階層が混沌としている時代に判断を示さないとならないということは、めちゃくちゃ困難なことである。しかし、それは21世紀の知的産業すべてに関係していることである。他人事ではない。