ことばを持てる人とことばを持てない人 野間宏の会

第17回「野間宏の会」 「シンポジウム 文学よ、どこへゆく?」に参加しました。

土曜日。藤原書店さんが事務局をつとめています。古風なシンポジウムで、今時めずらしいのではないか、朗読あり、ギターの演奏あり。

会の内容は、参加する価値のあるものであった。講演会に行くとよく寝る私もほとんど一睡もしなかったのではないだろうか。

奥泉光さん、姜信子さん、佐伯一麦さん、塚原史さん、そして司会の富岡幸一郎さんの話しが魅力的だったからだろう。というか文学ということを巡るシンポジウムというものに参加すること自体が新鮮だった。いろいろ考えさせられた。

姜信子さんの光だけのことばは、好きになれない、闇を持つ言葉ではないと信用できない、というような言いようと父の世代のことばが信用できないという話に少しいらだった。父はことばを持っていなかったということだとすると作家というものと言葉を持たないものとのあいだの葛藤というものもあるのではないかと。野間宏の母への対応は、そういうことがあったような気がする。まぶたに見えるチリの汚れを、阿弥陀の化身だと言ってしまうような母親に対する、いらだちつつも許しているようなところ。

塚原史さんの言った第三の道、もしかしたら、言語学の出版を志しているのはそこにあるのかもしれないと思い返した。イデオロギーにも思想、作品にも回収されないことばを研究するジャンルだから。それとは別に作品になるべきことばもあることは認めます。

善か悪か、良いことか悪いことか、世の中はそういうふうに分けると分かりやすいことがある。敵と味方、抑圧する側と戦う側。言語はそういう白黒付きにくいことが多いし、伝えられない、伝えようとしても理解されない、言いたいことがあってもうまく表現できない、表現されざるものを理解したいというようなところに、言語学の出版社を作る私的な出発点があったのだということを今更ながら、思ったわけで、そういう機会を与えてくれたシンポジウムに感謝したい。

参加したごくごく私的なコメントです。