忘れられた精神分析医ハリー・スタック・サリヴァンと言語学
精神分析医サリヴァンは思い出されうるのだろうか?
忘れられたというよりも、精神分析業界以外ではほとんど知られていないハリー・スタック・サリヴァンという精神分析医がいた。日本では中井久夫さんが精力的に紹介しているけれども、たぶん、人文科学の世界、教育学の世界などなど、関係すると思われる業界でも知られていないと思われる。
有名かそうではないかは、主観的なことで、単に私が知らなかっただけともいえるかもしれないが、ちょっと聞いてみたところ、それも私の身の回りというのに過ぎないので、確固とした事実と言うよりも、個人的な範囲に過ぎないので、根拠にはならないが…。
通俗的というか、安直な道であるが、wikipediaのページを示す。
人間関係を重視した考え方で、フロイトやラカンなどが基本的に自我が形成されるまでの部分に大きな比重を置いたのに対して、思春期など子ども同士の人間関係に注目した考え方は、とても重要なものだと素人ながら思う。教室で子どもがあれるということがあったり、いじめと言うことが起きたとき、それを分析する方法として。母子関係よりも子ども同士の人間関係の方が重要ではないだろうか。
教室のいじめを取り扱っていると言うことをいいたいのではなくて、こころの問題は母子関係だけではなく、友達関係や教師と子どもの関係も重要なファクターであり、そのことに関わる研究、診療を行ったパイオニアであり、精神分析以外のジャンルの研究者もサリバンに関心を持っていいのではないか、ということを言いたい。
サリバンの紹介者、中井久夫さんが序文を書いて下さっている。
サリバンは会話分析のパイオニアでもあり、面談を筆記者によって記録していた。テープレコーダーも無い時代にである。その時代の記録を発見し、言語学的な視点から分析したものが、加藤澄 著『サイコセラピー面接テクスト分析ーサリヴァンの面接トランスクリプトに基づいて』である。
http://www.hituzi.co.jp/books/440.html
精神分析とそのテキストの分析という研究は、ことばの研究としてとても魅力的なテーマだと思う。さらに人間関係におけることばの機能について、そのことばがどんな力を及ぼすのか、及ぼしてしまうのか、人間の言語生活を全てテキスト化し、そのことば全てを記録できたら、人間の言語生活史を研究できるのだろうか。
唐突だが、ある意味、文学はそういう機能をもっているのかもしれない。