草稿 学術出版助成と学術出版 その2

前回、経済的な規模が新書の24分の1であると述べた。経済的な規模が小さいと言うことは、一方では可能性であるということを述べたい。

規模の小さな言論を世の中に出すと言うこと、そのことの重要性。学術出版は、マスコミではなくて、ミニコミあるいはミドルコミュニケーションと言った方が実態に即しているということができる。1つの大きな、多数を占める言論をさらに広めるのではなくて、ささやかな小さな発端を世の中に送り出すと言うことに学術出版の意味がある。マルクス資本論も初版は500部であったというし、フーコーの書籍も500部であったと言われている。

ここで、こういう意見もあるかもしれない。それならば、ネットでいいのではないかということ。印刷部数が500部というのは少なすぎる、ネットでの発信なら、可能性としては数万、数十万、数百万という数字が可能ではないのかといういい方である。Youtubeに登場した日本語を話す米国の女性のアクセスが数百万になり、イギリスのオーディション番組で歌った女性の画像が数百万のアクセスを獲得する時代に、500部というのは少なすぎるし、そのために印刷費、紙代、製本代、編集費をかけるのは無意味なコストではないか、という考えである。

この議論は、可能態と実際を区別してないという点で現実に即していないだろう。ネットに何かをアップしただけで、大量のオーディエンスを獲得できるということは幻想だ。公開と書いたことは実際のレベルでは同じではない。自分のブログに書いたというものは、可能性としては公開であるが、実際には書いたということ以上のものではない。読みに来てくれる方々は少なくない、しかしその人数は、何か特別の要因がないのであれば、ほぼ一定読者に読まれるということである。

いつも見て下さっているみな様に感謝しますが、簡単にオーディエンスが、爆発などはしません。