学燈社「国文学」休刊 モノローグから抜け出す

学燈社「国文学」休刊とのこと。


私は、A5判雑誌の時代の終わりとか(『英語青年』は、B5だった)、教養の終わりであるとか、純文学の低迷とかいうが、そうではないと思う。20年前のラーメン屋さんと今のラーメン屋さんが違うように、生き残っているところは、時代が変わると味を変えるなどのことをしてきた。そういう商売の基本的なことが少し足りなかったのではないだろうか。それに朝日新聞によれば、部数は5000部でていた(最盛期の6分の1とのこと)というが、月刊誌で5000部あれば、生き残るすべはなくはなかったと思われる。

20年前の出版業と今の出版業はかなり異なっている。時代が違っている中で、当の出版社も読者もその変化を見ていなかったということではないのだろうか。

日本文学研究というものを、学術的なあり方と文学的なあり方のどのようなバランスの中で、生きていくのかという覚悟が十分でなかったのではないだろうか。日本近代文学会にいくと、研究しているのに他の人の研究書を読まない、見ようともしないということがあって、これはモノローグだなといつも思い知らされる。研究者という著者が、研究者という読者をお互いに相手にしないということであれば、メディアとしてなりたたないだろう。人のことばを聞かないもの同志で、他人事でしかない世界なら、メディアとしてなりたたない。そんな世界であれば、新しい人はこないことになる。

学術的商業雑誌というのは、なかなか難しい存在だ。『月刊言語』『現代思想』くらいしかないだろう。文化人類学の雑誌も無くなったし、社会学の学術商業誌などというものはそもそもなかったのではないだろうか。と考えると国文学というジャンルでよく頑張ったんだとまずは評価したほうがいいのではないか。お疲れ様、と。でも、私なら、学術的な要素を高めつつ、実験的な要素を入れる。文学から、世の中を見るという視点は決して重要度を失わないのではないだろうか。

学術的商業出版の立て直しに取り組みたいと思っている。国文学の編集長になりたかった。



国文学:次号で休刊 「学燈」も

 日本文学や日本語の月刊専門誌「国文学」と、国語の受験専門季刊誌「学燈」(共に学燈社刊)が次号で休刊することが、16日分かった。6月11日発売の「国文学」7月号、同13日発売の「学燈」夏季号で、それぞれ休刊する。

 「国文学」は1956年創刊。国文学研究者や国語教師、文学者の論文・作品の発表の場として親しまれてきた。「学燈」は48年の創刊で、現存する唯一の国語の受験専門誌。日本文学の人気低迷や受験生の減少などにより、2誌とも部数がピーク時の3分の1に低迷していた。

 学燈社の肥田尚昭取締役は「長年育ててくれた著者や読者の方々に申し訳ない」と話している。今後は参考書や教科書など書籍の一層の充実を図るという。

毎日新聞 2009年5月16日 20時11分

http://mainichi.jp/life/today/news/20090517k0000m040053000c.html