2000年のころのこと。

2000年のころのこと。我ながら、20世紀の末を飾ることをきちんとやっていたなあと思う次第。しかし、今はない主婦の友会館(御茶ノ水スクウェア)でやったシンポジウムで、部屋の借り賃からすると入場料を2000円とせざるを得ず、申し訳ないので『ルネパブ』を上げたら、大学生の女の子に本を売りつけるために2000円は高いとアンケートに書かれて、ショックを受けたことを思い出してしまうのは、少々ネガティブな発想かも知れない。


本の学校の方は、料金を本の学校とは別に500円徴収したところ、いちおう予定よりも若干黒字になり、地方小の川上さんから本部が赤字といわれて、来てくださった方からの頂いた資料代を、本部に返したことも思い出す。お金のことばかりだね。

★図書館を作りなおす―インターネットで、市民を支援する図書館を―は、その後にビジネス支援図書館推進委員会の運動に変形していった、大元でもある。この時に山重さんと菅谷さんがはじめてあったはず。違ったかな。

こんなことを書いているのは、懐古ではない、2010年には新しいことをしよう。もっと、出版に直接関わったことになるだろう。







●「作家はどのように作られ、読者はどのようにつくられたか?」
10月28日14時30分〜17時 本の学校 分科会2 1500円(本会とも)(お茶の水スクエアC館3F14号室)
主催 本の学校「大山緑陰シンポジウムin東京」実行委員会 お問い合わせ 0859-31-5001 
http://www.bekkoame.ne.jp/̃much/daisen/2000/index.html
企画・進行−松本功ひつじ書房
小田光雄パピルス代表 『出版社と書店はいかにして消えるていくか』(ぱる出版)ほか)
山本芳明学習院大学文学部教授 『文学者はつくられる』(ひつじ書房より近刊 円本の近辺の話し))
出版界はクラッシュの途上にある。様々な状況を見るとこれは自明の理のはずである!本シンポジウムでは、現状のクラッシュの解説をするのではなく、視点を変え、出版の世界で常識化しているいろいろな幻想がどのようにして産まれたのか、を検証することにする。昭和初期における円本などの文学全集の成功が、作家という職業で生活ができるようにした、といわれている。いったい、作家というものは、いつからくえるようになったのか?などなど。我々の抱いている出版界のイメージが、たかだか昭和からはじまる歴史的な産物に過ぎないことを検証しつつ、今後の出版のあり方の一つの姿を考えるきっかけにしたいと思っている。



トークライブ「かんかんがくがく・著作権って何だ!?」
11月16日15:00〜16:30 図書館総合展 石川徹也(図書館情報大学教授)、富田倫生青空文庫主催・ジャーナリスト)、松本功ひつじ書房房主)
東京国際フォーラム 総合展会場(セミナー室2)
主催 図書館の学校・TRC お問い合せは…TEL:03-3943-0666 図書館の学校事務局まで  http://www.toshokan.or.jp/sougouten.html

★図書館を作りなおす―インターネットで、市民を支援する図書館を―
11月20日(月)7時〜
御茶ノ水スクウェアC館2号室
菅谷明子(ジャーナリスト、『メディアリテラシー岩波新書、「進化するニューヨーク公共図書館」(中央公論 1999.8月号) 著者)
常世田良(浦安市立図書館館長)
福冨忠和(メディアプロデューサー)
アメリカの公共図書館では、インターネット端末が大量に用意され、(図書館が使用料を払った上で)市民が、普通であれば大企業でしか使えないようなさまざまなデータベースなどに自由にアクセスできる仕組みが、どんどん作られている。また、図書館の専門職が、ジャーナリストを含めた市民のリサーチに協力するなど、市民の活動や起業を側面から支援する機能があり、さらに、自宅にパソコンがない人であっても、図書館の端末から、無料メールで問い合わせをしたり、ホームページを作って発信するなど、デジタルデバイド情報格差)を解消する機能がある。
ひるがえって、日本では、IT革命が叫ばれながら、ビジネスにほとんどすべての関心が集中し、ビジネス以外でも学校がやっと射程にはいった程度で、図書館を情報化することには関心が払われていない。情報を蓄積して、貸し出す図書館という日本の図書館の現状を、改革し、市民のための新しい機能をどうやって実現していくのか、図書館人、読書人に訴えたい。



メディアリテラシーと国語教育
11月23日 1時30分〜5時
御茶ノ水スクウェアC館8号室
菅谷明子(ジャーナリスト、上記参照)
府川源一郎(横浜国立大学教授 国語教育学者)
宮川健郎(明星大学人文学部教授 児童文学研究者)
メディアリテラシーとは、『メディアリテラシー』によるとメディアを批判的に見る視線・能力のことであるという。この本を読んで、驚くべきことは、メディアリテラシーが盛んな国々では、それは「国語」の授業で行われているということだ。日本の国語の授業で、テレビの見方とか作り方、広告の意図の検討などということが行われているとは聞いたことがない。
国語の授業は、教科書に掲載された文学作品を読むことであると我々は思っているが、どうなのか? なぜ、かの国では国語の授業で行っているのだろう?現実の日本の国語教育に誠実に関わっている人はそのことをどうおもっているのだろうか?メディアを取り上げることに意味があるのか?もし、そのことが必要であるならば、それはどんな枠組みの中で、トレーニングが行われるべきなのか?日本の国語教育へのラディカルな問いかけにそのことはなるのか、ならないのか?問題点の発見を含めて、3名のセッションを企画する。
★のついているものについてのお問い合わせは以下にお願いします。
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ひつじ書房 松本功
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