『カラー版 本ができるまで』の見落としている本質

【執筆途中】


岩波ジュニア新書『カラー版 本ができるまで』という本があって、ジュニアなので高校生や大学生を対象としているものだ。この本の特徴は、本がどういうプロセスを経て、本になっていくかという工程について書かれていることと、本という仕組みができるまでの社会の歴史について語っているところだ。

この本は比較的良くできているので、これから本を出そうとする若い研究者の方であるとか、新人編集者にすすめたいと思う。ただ、実際にすすめるかという消極的になってしまうのだ。いい本だと思うのだけれど、納得できない点があるからである。

この本の見落としていることは、終わりから見ているという点だ。今はこういう出版文化がある、との過去のプロセスはこうだった、というふうに書かれている。現在の視点から過去を見ているという点だ。

私が言いたいことは何か、何を言いたいのかわからないと思うので、もう少し説明しよう。


十五世紀ドイツのマインツという町でヨハネス・グーテンゲルグという人物が、西洋ではじめて活版印刷を行います。彼のおかげでこの新しい技術は爆発的に市民に受け入れられ、後の宗教改革やヨーロッパ近代社会成立に大きな枠割りをはたしました。

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私はこの記述には重要な視点が欠けていると思う。グーテンベルグはこんなに印刷が普及すると思い、そのことが当然、宗教改革を引き起こすと思って、活版印刷をはじめたのだろうか? 爆発的に市民に受け入れられたのだろうか?グーテンベツグは、印刷業者としては、失敗してしまったということは言われていることだ。グーテンベルグの挑戦あるいは投機は、失敗に終わってしまったのだ。しかし、彼がそうした挑戦をしてくれたから、次を継ぐ人がいて、その結果として市民に受け入れられるという結果に至ったわけだ。

上記の説明には、そうした失敗を後ろに控えた実験、という感覚が欠如しているように私には思う。小さいことを大きく拡大して言うというのではなく、そういう失敗のくり返し、その失敗の中から社会性を作り出していくということが出版の精神である。そういう精神への完成のない『カラー版 本ができるまで』は、本質を見落としていると言わざるを得ないだろう。

失敗のくり返し、その失敗の中から社会性を作り出していく、ということが、先に触れた報告書で書籍の役割と述べられていることだ。もし、その機能に注目しないのなら、アカデミック内だけでの議論で充分ということになるだろう。

学術研究という世界も、そういう失敗覚悟の投機・挑戦の段階(A段階)ということもあって、それらが受け入れられると分かった段階での普及・啓蒙(B段階)というというところにいく。ひつじ書房で、仁田先生・村木先生の編集で日本語研究叢書を刊行して、大手が日本語学に一定の需要がわかったという段階で参入するということがあるけれども、『カラー版 本ができるまで』の立場は、そういう意味ではB段階の出版が背景にあるのだろう。

社会とつながるために危険をおかす、という精神がなければ、小さな学術出版社はなりたたない、という点でもっともっ私がだいじと思っているスピリットがないということで『カラー版 本ができるまで』はすすめられないのである。