歯ぎしりをする 近代日本の学術用語の誕生

水村美苗氏の『日本語が滅びるとき』を読んで、この本は日本の近代文学というものが、日本の近代を支えたということを大事なことであると思い、そしてそれが失われつつあることを悼むというはなしだが、この中で指摘されていることとして私としてさらに大事だと思うのは、近代を成立させたものとして、学術語を作ったということの指摘だ。このことにぜひとも注目したい。日本語で学術的な議論が曲がりなりにもできるということ、そのことについて感動するからだ。

このあたりは、ひつじ書房でも刊行している書物のある「近代語研究」のテーマの一つでもある。

蘭学→洋学が、科学的な術語を用意し、近代になって翻訳語が爆発する。かつては、飛田良文先生の独壇場であったといえると思うが、最近は真田治子さんがこの分野を研究している。水村さんに触発されて「近代日本の学術用語の誕生」について書いてくださいと真田さんに言おうかと密かに思っていたのだが、実はもうすでに世に送り出していらっしゃったのだ。アマゾンでは出てこないが、国会図書館で検索するとでてくる。

学術出版社の編集者としては、非常に歯ぎしりをするところである。その本はなんとすでに2002年にはでている。とするともう7年も前と言うことになる。7年前には「近代日本の学術用語の誕生」なんて関心は私には全くなかっただろう。飛田先生の研究も、語史的なフォーカスが強くて、近代社会の成り立ちというような視点は少ないのではないかと思う。これは飛田先生の責任ではなく、多くの日本語学者がそうだし、東北大は特に語史に強い大学なので、ここの出身の方はその傾向が強い。

言語史的なことをやっている言語学者で、社会史的なことをかける学者は非常に少なくて、私の仲人をしていただいた杉本つとむ先生くらいだろう。杉本先生は、私が勤めていた会社おうふう社のから出した処女作を出したということがあって、おうふう社の及川氏とは懇意で、入社した時に杉本先生の仕事を担当していて、それで仲人をお願いした。

ああ、しばらく、歯ぎしりをしていよう。