「英語青年」が、休刊 2

昨日の「「英語青年」が、休刊」につづいて。

今の時代、出版という商売をやる上でもっとも重要なのはその出版社なり、作り手なり、編集者なりの存在を分かりやすく伝えていって、シンパシーを持ってもらうということだろう。そう考えると「英語青年」は研究社という出版社のブランドの核になるはずのものであったのではないだろうか。

それは時代と共に変わって行くにしろ、核を失っていいのだろうか。どのように企業イメージを作っていくのか。

体裁や外見や構成は変わるにしろ、核はどうしても必要で、それを作ろうとするととてつもない労力を必要とする。作り上げるのは、すごい時間が掛かるものでも、維持し続けるのも難しい、一方、失うのは一瞬なのだ。そのことを重く受け止めるべきではなかったか。

また、時代の基調は変わりうるものだ。今、休刊するのではなく、かなり縮小したとしても、紙のものも持続的に作り続けていくべきだ。「英文学的」なものは、再生することがあるはずだ。

21世紀において重要な「英文学的」というものは、何であるのか?また、21世紀において「日本文学的」というものは何かということも問われていることであろう。「文学研究的」「社会学的」「人文学的」「教育的」「語用論的」「認知的」とは何か、ということも。

「英文学的」なものが、すべてダメという判断であるとしたら、そういう判断をすることはありえることだと思うが、どうやって「英文学的」なものなしに、出版社のイメージを再構築できるのだろうか。

たとえば、図書館で「英文学的」というテーマで美術展などはできないものだろうか。「アジア学的」であれば、アジア学生文化会館とか。何を言いたいかというと、新しい視線でテーマを捉え直すということは必要で、ただその時何をすればいいのかということ自体がナゾなのだということだ。何かと何かをぶつけた上で、それが「英文学的」と呼びうるものなのか、どうかということを挑戦してみてはどうなのだろう。


追伸

マイミクさんより、内田樹さんのブログが関係しているのではと言うことを教えていただいた。
日本の外国文学研究が滅びるとき
http://blog.tatsuru.com/2008/12/17_1610.php