書店寄港 盛岡市 さわやフェザン店

盛岡で開かれた日本語学会に行くために盛岡を訪れました。

さわや書店フェザン店のTさんに挨拶ができたのも収穫。Tさんは新文化に記事が掲載されてから注目していた書店人の方。ご実家のお店自体はたたまれたらしい。さわやフェザン店自体は、文芸書主体の見やすい明るい綺麗な書店であって、言語学書を置いてくれるタイプのお店とは言い難いけれども、あらためて、いくつか一般書的な本をご紹介申し上げよう。

ひつじ書房の本が地方の書店にないことは、ひつじ書房にとっての商売の機会を損失するということだけでなく、言語学の知的な成果に触れることができないということであり、学術出版社が学術文化と社会と接点を作り出すべきであるとするのなら、地方都市の大型書店で言語学の入門書が1冊も入っていないようなことのないようにしていくことを真剣に考えることが重要だし、それはひつじ書房の責務と言えるのかも知れない。

また、Tさんは実家である書店をたたんでしまったということだけれども、地方都市の人々にも本を読む機会を得る権利があるとするとそれはどのように実現するべきなのだろう。読書というのは、読み書き・批判能力・創造力・起業力の基本になるものであり、そういうものが地域から消えてしまうというのは、人間の生存権・文化権の喪失と言われるものではないだろうか。不思議なのは近代化のプロセスの中で、作られてきた書店という存在が、ポスト近代の中で失われつつあるということだ。

近代化の達成の中で、「向学心」というものの価値が失われたという学習モチベーションの問題、アマゾンなどのオンライン書店によって、読書の習慣のある大人は自由に書籍を手に入れることが出来るようになった反面、これからを担う子どもたちの読書力を身につけるインフラが消えていくということ。小さな問題ではなく、街の書店は、半公共的な存在であるのなら、その半公共的である部分を公的に助成してもよいのではないのか、Tさんの実家の書店について考えて思いました。

その公的な部分、今までは学校の教科書の販売を街の本屋さんが一手に引き受けるとのことで、結果として、あくまで結果として売上げが上がるようにされていたのであるが、そういうものも取次も通さずに宅配便ですませようという動きが文部科学省にはあるようである。もし、効率を望むのであれば、それは一つの方法だが、半公共性をどうサポートするかをただで済ませることもできない。別の方法を探るとしてどのようなやり方が効果的で公共性のあるやり方と言えるだろう。