ベルリンの壁、アメリカの壁

せっかくの金融機関の救済策が、アメリカの下院で否決されてしまったということで、株価は大幅に下落してしまった。

アメリカの金融の危機はいろいろな意味で皮肉に思う。経済通ではないので、床屋政談の域をまったくでないけども、今思ったことをメモとして書いておきたい。

どちらかというと給与の低い人でも借りられるローンが、住宅バブルの中で貸し出された。バブルがはじけてしまうと払えなくなってしまったということ。はじけてしまうと返せなくなる可能性の高い人々に強引に貸し付けられ、そして返せなくなったということ。返せなくなったのは、借りた人々の意志ではないけれども、返さなかったと考えれば、その段階で市場への強烈な否定ということでもあるだろう。その借金を金融工学によって、細分化して、証券化して、波及させたということ。

金融工学自体は、今後も必要だという意見が、日経ネットなどの金融、投資の関係者によるコラムには多いように思う。そうかもしれないが、そういうマジックのような方法、後付けできないような細分化、金融化、そしてそれを流通させるということ自体への危機感がなければ、そういう危険な商品はこれからも作られていくのではないだろうか。だから、やっぱり必要だ、ではなく、もっともっと厳しい反省が必要なのではないだろうか。

細分化され、流通し、誰がどう流したか、流れたかがわからないもの、といえば、それは、貨幣なのではないか。リスクを不可視化し、至る所へ波及させるということは、恐るべきことであり、金融工学は行われてもいいかもしれないが、そこには一定の制限、つまり倫理が必要と言うことになるのではないだろうか。

新自由主義、市場中心主義によって、市場に任せておきさえすれば、全てが良い方向に向かうと言うことは間違いなのではないか。もちろん、規制や既得権を守れということを単純に主張するつもりはない。しかし、このこと自体は、ベルリンの壁が壊されたと同じようなイデオロギー的な転換点になるように思う。市場は必要だが、倫理的なものも同時に必要であるということだ。

日本の場合も金融機関を救うために、税金が投入されたコトへの違和感は大きくあった。資本主義の時代なのに徳政令が行われたようなものであったからだ。高校生の時に、ずいぶん、理にかなわないことを中世の時代はやっていたんだなと思ったそのようなことが、いい大人になった頃に行われたわけだから。

しかし、下院で救済案が否決されたということは、借金漬けになって生活に困っているような人々が、金融の自由化で大もうけをし、さらには社会をこのような機器に落とし込んだ人々に対して、かれらはエリートであり、ベストアンドブライテストであったわけだ。彼らを救うな、というのは、そのことによって、経済がより危険な道に進もうとも許したくないということであり、高級サラリーマン、高級官僚への反発なのだろう。

彼らは自分たちは、かつてのソビエト共産党員たちと同等だという反省はあるのだろうか。拝金主義というイデオロギーは、偏狭な共産主義と同じくらい愚かであるという反省をしているだろうか。投資コラムニストたちののんきな発言を見るとそういう反省はなさそうに見える。

ベルリンの壁が壊れ、そしてそのほぼ、20年後に市場の壁が壊れたということは、21世紀がよりいっそう複雑化している兆候だろうと思う。そして、それは、どのような社会をもたらすのだろう。

市場と効率を求めた20年間を、もう一度考え直すべき時が来たということのように思う。つまり、いいたいことは文化と無駄、職人的な労働と回り道を再評価するべきだということだ。フェリス女学院大学図書館の挑戦の原稿を編集しながら思います。図書館は重要ですよ、みなさん!

強引な道筋ですが。