書籍の公共性

書籍の公共性を考える。

内容が、たとえば、言語政策、多文化共生に関わるものの場合に、公共性が高くて、動詞の活用についての本だったら、公共性が低い、ということになるのだろうか。


書籍の内容が、公共性に関わるものの場合と内容が私的なものの場合。たとえば、マッチ箱の収集についての本であったりした場合、オタク的な趣味の場合、公共性が低くなるのだろうか。

たしかに、エロ的な内容の本の場合は、私的な要素、私的な欲望の要素が大きくなるわけで、公共性があるとは言いにくいかもしれない。でもそれは、風俗、良俗といったことであって、公共性の高い低いとは関係がないことかも知れない。

書籍自体の機能に公共性があるとする。たとえば、エロ的なものであっても、男性から女性の見方のようなものが、時代の中で共有されているものであるかも知れない。その見方が良いかわるいかはひとまず置いておくとして、メディアとしての時代の中での共通性的なものはある。

それは公共性と呼べるのか。ちょっと難しいように思うが、では、ブログが生み出した世間的な気分であるとか、表現の仕方であるとか、言説の生まれ方とか、そういうものはどうか。

書籍の読み方はリテラシーを求めるところがあって、「教養」と呼ばないまでも、ある種の技術があって、それを共有していることは重要なことであり、そのことが社会のコミュニケーションの回路を作っているとすると、内容とは別にメディア的な公共性というものはある、と言っていいのではないのか。

最初に戻ろう。政治的な内容の方が公共性が高い、ということは言えるのだろうか?ひとまずは言えるように思う。しかし、という気がする。政治というものを広く捉えると言うことの中で、全てを入れてしまうべきか?

しかし、そうすると全ては政治であるといういい方になってしまって、それはそうなのだが、何も言っていないことになりはしないか?