文化政策学、文化経済学としての観点 学術出版に公共性はあるのか

文化政策、文化経済としての出版ということを考えることができないだろうか、と思っています。

文化政策は、政策であるわけであるのなら、私利私欲のための政策ということがありえないとするのなら、公共政策の一つということになり、公共と政策とにまたがる部分ということになる。

では、政策であるとすると、それは官僚が考えてこうしようとかこういうことを助けようとか、政治全体の中のグランドデザインとの関わりがあることになる。

一方、公共というものが、市民の生活がよりよいものになり、あるいは大きな問題が無くつつがなく幸せに生きていくための、仕組みや活動やそういうものを相談すること、コミュニケーションしつつ活動していくことだとすると、大元には生活があるということになる。

その際に、食うに困らない、迫害されない、戦争に遭わない、天災があっても人災的にさらなる被害が起こるようなことはない、というレベルを超えて、文化的な生活をしたいということが、文化ということであるとする。

それはここの欲望、趣味、願い、願望、楽しみに基づいていると言えるだろう。そういうことには関知しないという考え方もある。それは、生命権を越えたものである。生命権を越えたものを国レベルが提供することはよくない、という考え、これは新自由主義と呼ばれる人から、国の規制は出来るだけ少ない方がいいと考えるリベラルな人、あるいは無政府主義者的な人々と様々である。

私は生命権を越えたレベルにも関わりを持つべきである、と考えている。

では、何に関わるべきなのか。

あるいは文化的な営みにも、大きなものから小さなものまであるし、作家という個人の芸に大きくよっているようなジャンルもあれば、オーケストラのように組織的なものもある。何が支援されるべきなのか。

学問でも、それは社会学なのか、歴史学なのか、文芸学なのか、言語学なのか。どれかを選ぶときにその根拠というのはあるのだろうか。

学術的な活動に価値があるとして、その価値を学問が「公共性」を持っていると主張しよう、その場合、学問を支える出版にも公共性があるのだろうか、あるとしたら、どのような公共性?