稲葉振一郎氏の『「公共性」論』を読んでいます。

今、読んでいる本について触れます。稲葉振一郎氏の『「公共性」論』を読んでいます。稲葉さんの本は、『ナウシカ解読―ユートピアの臨界』から、何冊かを読んでいる。8月15日に、紀伊國屋書店新宿南口店で買った。触れますと言いましたが、内容の紹介ではなくて、その「公共性」というものについての関心がどういうものなのかを説明します。

ひつじ書房は、言語学の研究書を刊行する出版社であるから、言語政策や学術政策、文化政策が重要であると考えている。(それに関連する書籍も今年の秋から来年の4月にかけて、多数の刊行予定がある。)言語政策、文化政策が大事だと主張するとすると言語政策・文化政策には公共性があると考えるかということが、重要になる。言語政策をきちんと作るために、政府が公的なコストを払って、優れたものを作るべきだ、とすると、それは公共的なテーマということになるだろう。その場合、他の政策と比べてどちらが優先される、より公共的なテーマだと言えるのだろうか。たとえば、少子化の折、子育て支援というテーマがあるが、それと言語政策はどちらがより公共性が高いのだろう。

日本は、言語政策をきちんとしないといけないよねというとしたら、どういったら、それは直接関わりのない人にも、そうだよねと共感してもらえるのだろう。税金を払っている人たちが、そのテーマはだいじだよねと納得してもらえるということは可能なのだろうか。

私も含めて、社会的な現象、問題に対してきちんとコミットできるような知識と判断力を持てるほど経済的な余裕も、時間的な余裕はない。自分の関心があることにだけしか、関わることはできない。多くの人にとって、言語政策の行く末がどうなるかということは、関心の外側だろう。関心の外であれば、どういうことが起きようとどうでもいい、ということになる。人々の関心事は、それぞれの人々のいる場所によって、それぞれの関心を持っていることになり、共有するのは困難だ。共有していないとしたら、全体の問題ではなく、部分、つまりある特定のグループにとって重要なのであって、社会全体に対して公共性があると主張はできないことなのではないだろうか。となるとほとんど多くのテーマは、グループのものであるわけで公共性はそこにあるとは言えないということになるのだろうか。

その人の立場や、環境によって関心事が変わってくる。子育てをしていない人にとって、子育て支援に税金を投入することは納得できることなのだろうか。直接、関わらなくても社会全体に関わるテーマであれば、公共性であるとは言えないことはない。だとして、誰があるテーマを社会全体のものであると評価したり、公共性があると判断することができるのだろうか。絶望的になる。

多くの人に感心を持ってもらってはじめて、公共性があるというのなら、そのテーマを、宣伝し、社会的な話題あるいはブームになるようにしない限り、公共性があるとはいえないということであれば、マスメディアが公共性を作ると言うことなのだろう。マスコミは重要な役割を果たす存在ではあるが、原理的には違うだろう。ジャーナリズムの役割を過小評価するつもりはないが、それが必須であるというのは言い過ぎだろう。

稲葉氏の本はまだ、読み終えてはなくて、まだ、3分の一くらいまでではあるけれども、公共性ということに関して、スリリングな議論を展開してくれていると思う。

学術研究に公共性があるというのだとしたら、その公共性に奉仕する学術出版にも公共性があるはずである(と私は信じる)。とするのなら、いろいろな可能な手段を使って、それを伝え、社会に訴えていく必要がある。そのためにもっとも重要なことの一歩が、税金を正しく使って出版していくことではないか。9月1日、平成21年度科学研究費補助金研究成果公開促進費)の書類が、公開されました。

http://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/13_seika/index.html

もし、ご相談をされたいという場合は、9月20日までにお願いします。ご相談の後、研究内容について踏まえた上で、申請しますので、時間が必要です。遅くとも20日までということでお願いします。