編集者にとって必要なのは専門性なのか、研究者のクリエイティビティ

【タイトル】

編集者にとって必要なのは専門性なのか、研究者のクリエイティビティを理解することなのか

【おことわり】

偉そうなことを言うつもりはなくて、独り言メモのようなものです。もう、少し著者の側に踏み込みたいと思うことがあるのですが、それはどうしたら可能なのか、というようなことを考えている最中でのメモです・

【本文】

本の編集というのは、いろいろなレベルがある。企画を立案するところから、はじまって、原稿のチェックということもあります。このチェックも出典があやしいので、確認をお願いするというようなこともあるし、(ここではあやしいと感じる感覚がだいじか)、本の主旨の論旨があまいように感じるので、さらに説明を加えてほしいとお願いするというようなことである。そのあまいと感じるのも感覚かもしれません。異論があたまの中に浮かんできて、それに対する答えがあらかじめ用意されているように感じられないであるとか。ある内容を示唆しているのに、その研究の業界での研究に対して、目配りがないように思えるであるとか。

全体的なトーンについて読者と会わないであるとか、ということもある。もう少し分かりやすく書いてもらうことができればより読者が広がるだろうと思う時には、説明を増やしてもらったり、表現を砕いてもらえるようにお願いすることもある。

編集者は、もっともっと内容を理解するべきだが、反省を込めて言うと、テーマを理解することはできるけれども、その内容の実証プロセスについては正確には判断することはむつかしい。そのためには、欧米の学術出版社のように博士号を取ってから編集者になるというようなことが必要になるかも知れない。編集者にとって必要なのは専門性なのか、研究者のクリエイティビティを理解することなのか。どっちかというと後者の方が優先されると思う。後者があって、前者があるのがいいのではないだろうか。前者があって後者がないと校閲はできるかもしれないが、企画立案は難しいし、専門分野も細分化している世の流れからすると、専門性が通用する分野は小さいのかも知れない。