自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門

面白い内容だと思う。

ただ、ここで言われている「リバタリアニズム」はどうも「思考実験」として面白いという気がする。

前提として「人々は自分の力で自分の力を手に入れられる」、「人々は自分の自由を管理できるだけ優秀である」、「人々が自由に生きていたとしても他人を尊敬する気持ちは当然のこととして持っている」というようなことがあると思う。

また、国が裁判制度を持つ必要はない。人々は自前で地域の問題について解決できるから、という「思考実験」は面白いけれども、そうすると自前で決定できるだけの地域力というものが前提としてなければならず、とするとその地域力というものは、コミュタリアン(共同体主義)的ではないのか?

伊豆の宇久須の芸能についての本を今年の末に出すのだけれども、戦前までには若者の自治組織があって、そこでは何か裁判のようなことも行われていたということが書いてある。(ご期待下さい。著者は大石泰夫さんです。)そこからすると国家がなくても自治的に裁判をすることができそうである。ところが、それには地域が前提となってしまい、コミュタリアンと変わらなくなってしまうのではないか?

『生き方の人類学』にしたがって考えるとコミュニティも変化していくと考えると、やはり「思考実験」だと思ってしまう。