クリプキ―ことばは意味をもてるか 飯田 隆

myougadani2007-02-04

「意味論」について調べている。その中で、出会った本。

よくわかったとは言い難いが、こうか。これまで全てのエメラルドがgreenであった。これからもgreenだという人(green)。というのに対して、昨日まではgreenであったが、明日から見つかるエメラルドはblueであるという人(grue)。今日までのもエメラルドと明日からのエメラルドが同じものであるという厳密な論理的なルールはない。明日もまたgreenであるという保証はないとするとどうなるのか。

問いかけられているのは次のことになるようだ。

1)論理的に成り立たないかもしれない根拠(帰納法「昨日までと明日以降も同じはずだ」)によって人間のコミュニケーションがなりたっていることの不思議。
2)greenであると信じ続けている人とgrueであると思っている人が意味の交換ができるのか?

一応、根拠がないところで、成り立っているのは慣習ということになるのだろう。意味には基盤はなく、慣習があるということになる。『生き方の人類学』でいえば、ハビトゥスということか。

ただ、面白いと思うのは「やりもらい(何かをあげたりもらったりすること)」の言葉が違っている地方があり(「くれる」が、あげること(贈ること))ともらうこと(贈与を受けること)の両方を意味したり、逆だったりすることもある。エメラルドで言えば、greenだと言っている地域もあれば、blueであると言っている地方もあるということである。(ひつじ研究叢書(言語編)第48巻『授与動詞の対照方言学的研究』日高水穂著、参照)

「右と左」や「行くと来る」でも地域によって違う(『ことば・空間・身体』篠原和子・片岡邦好編)ということになれば、複数の「言語ゲーム」が存在するということであり、その「言語ゲーム」の間の会話というのはまさに上記の『クリプキ』が上げている状況が哲学的な懐疑論というよりも、自然に起きてしまっている状況と言えるのではないか。