言語学としてのジュディス・バトラー

ジュディス・バトラーの『ジェンダートラブル』を読んでいる。

思ったこと、普遍と個別の問題、普遍と個別のせめぎ合いということで考えるとヘーゲルよりも、言語学の意味論のようなものを土台にした方が話がわかりやすくなるのではないだろうか。

政治的な言説ということを考えるとヘーゲルマルクスとなるのかもしれないが、その方がいいような気がする。ヘーゲルを土台にするとヘーゲルに対する訓詁注釈になってしまいがちじゃないだろうか。私に哲学史的な素養がないからだとも言えると思うが、言語学なら言語学として研究ができるじゃないか。

言語思想研究と言語研究は、違っていると思うが、私は言語研究の方をいいなあと思う。

(これはメモです。いい方が不十分だと思います。)