facebookのおわりのはじまり

facebookはとてもよい気晴らしであったのに、もういいや。たぶん、あまり使わなくなってしまうだろう。


めんどくさすぎる。もともと、blogより更新が楽でtwitterよりも近しくなれて、気楽にやりとりが出来るという、その気楽さがいちばんのポイントだったのに、今まで覚えたインターフェースを変えられて、新しく学習しないといけないという、めんどくさいということが安易におこるならば、blogに戻りましょう。ちょうどよい気楽さだったのに...


niftyserveのころが、懐かしい。月に数千円払ってもいいので、広告モデルではない、コミュニティネットワークサービスが立ち上がってほしい。われわれは、参加しているといいながら、マーケティングのためのテキストをはき出し、出された広告バナーにクリックするというモルモットとしてのマーケティングサンプルを提供しているということだ。タダとの引き替えに。


しかも、こちらがインターフェースに馴染むという学習するための時間というものをまるで無尽蔵に提供されると勘違いしている。あるいは意図的?


個々個人の時間というものを。無料で提供して、確かにお金は無料かも知れないが、もっと貴重なもの、体験というものを捧げないといけないというのは。八岐大蛇ではないが、ウワバミといえるだろう。そうして、便利さ故に依存していく...


となるとお客であることの大切さ。われわれは、facebookにとっては単なるデータベースの中のデータに過ぎないというわけだ。そうして、みな無料であるかのように振る舞う。しかし、依存していく。だって、お金を払って得られるサービスよりも高度のサービスを得られるのだから。


データベース化する社会というのは、コンテンツが、情報が、大変がデータベース化するだけじゃない、自分というコマもデータベース化するということなのだ。


いかにソーショルネットワークサービスから隠遁するかが、21世紀の課題になるなんて、予想しなかった。




イノセント レイプド ソーシャールネットワーク

by King Crimson