学習英文法のシンポジウム
慶應大学(日吉)にて、9月10日に開かれた学習英文法を巡るシンポジウムは、大盛況でした。
演題は次の通り。
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慶應義塾大学英語教育/言語教育シンポジウム
学習英文法―日本人の英語学習にふさわしい英文法の姿を探る―
・ 江利川春雄 (和歌山大学) 「学習英文法の歴史的意義と今日的課題」
資料:日本における学習英文法関連年表
・ 鳥飼玖美子 (立教大学) 「コミュニケーション能力と文法---二者択一からの脱却を目指して」
・ 田地野彰 (京都大学) 「学習者にとって「よりよい文法」とは何か?---「意味順」の提案」
・ 山岡大基 (広島大学附属福山中・高等学校) 「アルゴリズムとしての「学習英文法」」
・ 大津由紀雄 (慶應義塾大学) 「日本語への「気づき」を利用した学習英文法を考える
※ 以下は指定討論者シンポジウム資料になります。当日はこれらの資料をもとに議論が展開される予定です。
・ 松井孝志 (山口県鴻城高等学校) 松井孝志先生による事前公開質問
・ 久保野雅史(神奈川大学)
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鳥飼玖美子先生の英語教育学史の振り返りが、面白かった。日本語教育の世界で文法はいらないと言っている人に聞かせたい内容であった。
アンチ文法の風潮が生まれたのは、LL教室で反射的に文を作らされるという条件反射的な英語教育が反省されたことによる。しかし、ハイムズ以降の議論で「コミュニケーション能力から文法を外すのは論外」である、とのこと。CanaleとSwainの議論でも、文法的な能力は必須のものとされるし、1990年のBachmanの議論でも文法能力を必須のものとしている。フォーカスオンフォームという考えも、文法を軽視しすぎた反省から、状況の中で文法を教える、という要素があり、しかし、いろいろな意味で実験中と考えるべきだ、とのこと。
具体的にどう導入するか、どういう項目を教えるか、ということは議論が必要にしろ、文法能力は必須のものとして含まれている、ということである。では、それをどんな学習文法を構想するか、どう教えるか、ということが課題とのこと。
ちなみに、文化人類学的視点、社会科学的視点を言語研究に導入させたハイムズの『ことばの民族誌』の新訳を来年の3月にひつじ書房から刊行予定であります。
コミュニケーション能力と文法的能力の関係について十分に議論をしないで、ただ、文法を否定するのは、私はちょっと方向が違っているように思っています。
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http://www.ndl.go.jp/jp/event/exhibitions/1191997_1376.html#18
今回の展示では、江戸期以降の辞書、明治期以降の教科書、学習参考書、そして英語必修化をめぐる現代の議論に関する資料を展示します(一部は復刻版)。また、日本で英語が広がった時代の世相を伝える資料として、明治期の翻訳書や西洋文化の理解に貢献した外国語学校の年史を取り上げ、日本人が英語の学習に、そして外国の文化の摂取にどのように取り組んできたのかをご紹介します。
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