複言語主義

複言語主義。

ヨーロッパのCEFRは、言語の運用能力の指標となるものである。言葉を使って、何が出来るのかを明確にして、移動しながらでも、学ぶこと、移動しながら仕事をすることを恣意的ではなく、「客観的」な基準を設けたといえる。そのこと自体は、人々の移動や移り変わることを、抵抗なく行えるようにしているという点で、解明性、公平性、公開制があるものであるといえるだろう。

日本語のスタンダードもそのCEFRの発想を参考にして作られている。あるいは作ろうとしている。

この公平性などなどについては評価しているが、行き過ぎると能力主義になる。もう少し言うと言語中心観に基づいた能力主義となる。たとえば、ポーランド人のフランス料理のシェフが移動する場合にどうか。口は達者ではないが、料理は優れているということは当然あり得ることである。あくまで言語能力についてであるのに、それで入国審査とかに使われてしまうとCan Doも行き過ぎという心配が生まれる。昨年の仕分けで国際交流基金の事務官が、日本語能力試験を入国審査に使うと捉えかねない答弁をしていて、日本語教育業界を震撼させたこともある。そういうことに使いうるものであるがゆえに、使ってしまうと大きな権力を持ってしまい、一人歩きをしかねない...

欧州にはもう一つ、複言語主義という考えもある。フランス人は、たとえば、ポーランド人のフランス語の能力を調べることもあるが、言語能力で評価をすること(採用とか)もあるが、その場合にもフランス人側もポーランド語ができるようになっていようというようなことである(と私は推察している)。

私は、Can doに基づくスタンダードと複言語主義は両方必要であろうと思うのである。

Can doに行き過ぎるとそれは、新自由主義的、市場観になってしまう危険性がある。能力の全てをその人の責任に帰してしまい過ぎるのは行き過ぎであるのではないか、というようなことを思っています。

柳瀬先生が「複言語主義」について書いていらっしゃいます。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/plurilingualism.html