予測できないリスク、検証できないリスク

予測できないリスク、検証できないリスクについて考えることが今回の原子力発電所大事故について考える際に重要なのではないだろうか。

先日、お越しになったある方が、マクルーハンのバックミラー効果ということを言われて、経験したことのないのことは、後ろ向きに見るしかないのだ、だから、前を向くのは難しい、前に起きていることを判断することは難しい、ということになるのだが、電子出版と呼ぶが、それは出版と呼ぶべきではないかもしれないとおっしゃった。

出版と呼ぶべきではないのなら、出版社の意見を聞く必要はないということになる。

しかし、ということは、私は、保守主義へと導く。

未経験のこと、リスクを判断できないものを判断できないからということで合理化しすぎない方がいいのではないだろうか。

未経験のリスクについては慎重であって、慎重すぎることはない、と。





以下は引用である。このような考えが問題なのだ。書き込んだり、めくったりすることなしに、人間のリテラシーや記憶や体験がなりたつのか、なりたつかもしれないし、なりたたないかもしれない。なりたたない可能性があり、そのリスクについて「予測できない、検証できない」のに進めるべきというのは、私の考えでは無責任である。


それが上手くいかなかった場合の対策を考えているのだろうか?


府川先生は尊敬している先生だが、この文章は私の考えでは、無責任である。保安院と同じと言ったら怒るだろうが。



第12回 デジタル教科書時代の到来

         横浜国立大学教育人間学部教授 府川 源一郎


 いよいよ日本でも、電子書籍の時代が到来したというニュースが
飛び交っている。いくつかのメーカーが、デジタル情報をディスプ
レイに自在に表示できるような装置を販売したり、類似の商品を近
日中に市場に供給すると予告しているからだ。我々は将来、紙に印
刷した活字を読むのではなく、もっぱら電子装置に頼って、読書活
動を展開することになるのかもしれない。

 もちろんこれまでも、パソコンやケータイ、あるいは電子辞書な
どを使えば、紙媒体ではない文字情報を読むことはできた。新聞の
最新ニュースはネット経由で読んだ方が最新情報を獲得できるので、
新聞の定期購読をしていない家庭も多くなってきている。百科事典
の代わりに、パソコンの検索機能を使うのは、もはや一般的な情報
収集活動となった。次々と更新される情報は、その量といい、新鮮
さといい、紙に印刷された書籍を、はるかに凌駕する。

 ほかならぬ国語教科書も、全面的にデジタルに移行することが想
定される。子どもたちは、ランドセルに重い各教科の教科書を背負っ
て通学するのではなく、薄いディスプレイを持ち運ぶのだ。

 目の悪い子どもには、活字の大きさを自在に変えられる機能や文
章の読み上げ機能が有効だろう。また、肢体不自由の子どもは、軽
いディスプレイが読書行為を積極的なものにしてくれるかもしれな
い。そのほか、子どもにとって、紙の教科書で難しかった新しい教
科書の使い方が生まれてくる可能性がある。

 また、学習指導も変わるだろう。文章の冒頭から結末までを線上
的に読んでいく読み方だけではなく、特定の単語を拾い出したり、
文末表現だけを調べたりするような横断的な言語学習ができる。外
部の情報をを調査して、そのまま自分の作文活動に取り入れること
も可能である。あるいは、そうした情報探索の仕方そのものを考え
たり、そこでのルールを教えることもできるだろう。

 デジタル教科書の登場は、従来の受動的な学習が、主体的で能動
的な学習へと大きく転換するきっかけになるかもしれない。まずは、
その可能性を探ることが、今日の私たちの立場でなくてはならない。