リスクの考え方

リスクの考え方を変えた方がいい。


先日、先生と話しをしている際に電子書籍の話しなのだが、私がわれわれは、紙を媒体にした2次元上の読み書き能力の後にパソコンなどの電子的なメディアのリテラシーを獲得した、その経験から考えると、子どもたちへの教育についてはまず、読み書き能力を作ってから、別のメディアに移った方がいいのではないかと申し上げた。


それに対して、われわれの世代は、そういくリテラシーの獲得方法だったけれども、それに対して、それはこれまでの世代の経験に過ぎず、そうじゃなくて最初からデジタルメディアということもありえるのではないか、という考えを言われた。


それは言説としてはありえる論理だ。しかし、私は思うのは、もし、新しい方法を行って、それが、デジタルメディアからでもリテラシーが得られる可能性があるということであるのなら、その可能性ということは、そうではない危険性があるという意味にとった方がいいのではないかと私は思うのである。


デリバティブという金融商品は、危険性もある商品であるということは分かっていたが、危険である可能性はあると言われていても、そのリスクを十分に見積もらず、市場がクラッシュした時に、想定外のことが起きたのでといういい方をする。


そうではなかった場合の、責任は誰が取るのだろう、取れないわけだ、責任を取れない言説は、非常に危ういと考えるべきではないか。


1000年に一度の地震と言われているが、100年前にも20メートルを越す津波はあったそうである。想定しなかったリスクが起きたのでと言ってしまうようなことは危険であるということである。経験していなかったから、今よりも上手くいく可能性があるという無責任ないい方が許されるようになったのはいつからなのか?


もしかしたら、フランス革命のあたり、啓蒙主義にその起源があるのではないだろうか。


問題ない、問題ないと推進側はいうわけであるが、そうではないかった場合の責任は取りようがない。責任を取れないことを公言するというのは非常に問題だ。


分からないことはやってみてもよい、というリスクに対する無責任な考えは、今回のことで大いに反省するべきだと思うのである。どうせ、携帯電話があれば、大丈夫だから、固定電話を無くしてもいい、という風潮の中で、どんなに困っていることだろうか。