ファシストでもやらなかった暴挙

丸山真男は「1968年の東大紛争の際、大学の研究室を占拠して貴重な資料・フィルムを壊した全共闘の学生らに「ファシストでもやらなかったことを、やるのか」と発言した。」(wikipediaによる)


という話しを吉本隆明氏の文章で読んだことがあります。その時の吉本氏の論調は、丸山真男の発言は東大教授の特権的な愚かな考えに基づく発言だ、持てるものの特権的な発言だ、ばかやろう、という調子の文章でした。それを読んで、かつて若者であった私は、そうだそうだと思ったと思います。


丸山真男の研究室にあったであろう、ドイツ語やフランス語の文献も、研究書もそんなものはどうせ自分は読むこともないわけだから、燃やされようが、水浸しになろうが、破られようが、消え去ろうが関係ない。東大教授、つまり国家公務員という特権の持ち主の研究室の本がどうなろうと関係ない...



最近、電子書籍を持てはやす方々が、本を壊して、スキャンする、自分の本をスキャンすることに法律的な問題はありませんが、その延長上に、そういう法律を飛び越えたことを行う人、人が買っておいたものを、ばらばらにしておいて、自分でスキャンしてというようなサービスが生まれたりする危険性があると思えるのに、何だか、本を解体すること自体を望ましいことのように語る語り口、があるわけですが、私はそんなのも「ナチスもやらなかった暴挙」のように思います。


自分が今価値がないと思うかも知れないものについて、尊重するということが重要なのではないかと思うからです。若手が常に前の世代を批判して前の世代を特権的であると批判するということは、繰り返し行われてきたことではあります。しかし、電子書籍の推進派の中の一部の方々のいい方は、紙の本は絶滅してしまえばいいと言わんばかりであって、そういうセンスの背景には、自分が価値が認めないモノについては消え去ってもかまわないという精神があるように思います。

そういうことから、考えるとかつて『理想なき出版』という本を出したシフリンのことばは重要です。


本屋が存在する意義とは「欲しいと思っていた本がそこにあるからではなく、今までその存在を知らなかったけど、読みたくなる本を見つけられる場所だから」というものだ。だから彼はデジタル化を憂えてもいる。ネットに載せれば、等しくどんな本も出せるようになったと言えるが、でもネットに載せてしまうことで誰にも気づかれない危険性がある、と。元々publishという言葉には「公にする」という意味があるのに、と。ネットのような「誤報の汚水溜め」に放出するのではなく、本という形にして世の中に出すのが出版社の使命だと、そしてそこには「民の信用」がなくてはならないのだ、とシフリンは言うのである。
http://oharakay.com/archives/2289


シフリンの新著、words & money、興味深いのでアマゾンに注文しました。


追記

もうひとつ。先輩の世代を既得権だといってどんどん切り捨てていく、それを拍手喝采するというのは「悪いのは全部他の人だ、自分は悪くないも〜ん新自由主義」の走りであったのではないだろうか。そういう意味では、小泉純一郎的市場主義のみなもとは、吉本にあったともいえるだろう。『サブカル・ニッポンの新自由主義』(鈴木謙介)の源だと思います。