気が付いていないことに気が付く

気が付いていないことも気が付く、というのは、そのことばの意味からして、不可能だろう。

気が付いていないことなんだから、気が付かないわけだ。気が付いたら、気が付いていることになる、というのは合理的である。


でも、気が付いて欲しいとする。たとえば、上司であったり、親であったり、同僚でもそうだろう。

それを指摘するという方法があるわけだ。そこで問題は次の段階に移ることになる。


気が付かなかったことを指摘されたときに、それは重要な問題と認識できるかどうか、ということと、気が付かないことを指摘されて、そんなの仕方がないじゃんと思うかということがある。

それと重要な問題と教えられて認識したとして、重要なことなら、最初から言っておいてほしいと思うような場合だ。


それじゃあ、困ってしまうということ。

どうして困るのかということ自体を教えてほしいというのでは困る。


ここで、最初も問題に戻ってくる。

気が付かないことを気付くというのは難問だということ。これが問題であると言われなければ、問題と気が付かないのでは、困ると言うことなんです。

そういう推察力がなければ、手取り足取りということになるが、手取り足取り教えた場合に自分で気が付く能力が育まれるのか、が大いに疑問と言うことだ。永遠に手取り足取りは無理だ。


気が付いていないことを気付くというのは、非合理的な能力と言えるから、高度な能力と言えるだろう。しかし、そういう能力がなければ、教える方はとてもたいへんであるから、そういう能力のなさそうな人は、働いてもらっては困る、というようなことになる。


ただ、そういうと私にも気が付いていない問題というものはあり、どうやってそれを察知するかというのはとても大きな問題。