かえっていろいろたいへんな時代

今の時代、執筆者の方々は当然のことワープロソフトで原稿を書かれる。自分のところ、自宅であったり、研究室であったりでプリントアウトされて、綺麗な文字でプリントアウトされることを当然のことと思っている。

私が編集者になった時代は手書きの原稿の方が普通であったことを考えると隔世の感がある。

しかし、かえっていろいろたいへんな時代になったという点がある。ランダムにあげてみたい。

●手書きの時には最終的な印象が書き手にあったが、書き手の意図なのか、単にワードの設定でそうなっているのかがわかりにくい。

→ひつじでは執筆された方の手元でプリントアウトしてもらった上で、鉛筆書きでいいので、意図はこうであると書き込んでもらうことにしている

●プリントアウトの環境によって見た目がかわってしまうことを意識しない。どこでも同じように再現されると信じている。pdfだから大丈夫ということはないことを認識されない。

→pdfでもフォントがなければ化けることがある。理由が不明だが、フォントがあるはずの1バイトの文字である数字が化けていたこともある。かならず、打ち出しして、肉眼で確認することが必要。

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かならず、打ち出し原稿が必要ですが、どうもデータになっていれば、大丈夫という過信があるようだ。

学術書は高いと言われますが、それは刊行部数が少ないためにコストを回収するための部数が少ないので高くなるということと、そういう少ない部数でイニシャルコスト(1冊つくるということで基本的に必要なコストがあります。編集者はそれで生きていますので、まともな給料を払うためには必要です)を回収します。

1回初校をだして、それがきちんと最終的な意図に合致していないので組み直しというようなことが起これば、イニシャルコストは二回分必要と言うことになります。しかし、今の時代、本の値段をこれ以上高額にしてしまえば、コピーされる危険性が高まりますので、不要な手間はできるだけなくすようにしないと出版ということが困難になってしまいます。

コストをよぶんに掛ける危険性のあることは、事前に避けなければなりません。そういう注意を十分に払わないと学術書の刊行はできない、ということになります。

困ってしまうのは、執筆者の方がワープロソフトで書き直しを何度も行っていますので、文章の改変のもたらすコストについて想像が働かなくなっている場合があるということなんです。

原稿は、打ち出し原稿をちゃんと確認して、その意味で不完全ではない原稿を下さる、というのは著者の責任でありましょう。

どうぞよろしくお願いします。