ひつじ書房の20周年を記念したシンポジウムの説明

ひつじメール通信で発信したものです。

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ひつじ書房の20周年を記念したシンポジウムを、秋から冬にかけて3つ行います。文学、文学教育で2つ、日本語学で1つの合計3つのシンポジウムを行います。

日本語学の「連体・連用を考える」は12月の開催ですので、いくぶん先のことですし、シンポジウムまで日本語学会、言語学会、英語学会とありますので宣伝・広報の機会があります。9月のシンポジウムは、言語畑の方には、縁遠いと思われるかもしれませんし、もう1カ月と少ししかありませんので、今回はこちらの内容を紹介します。

ひつじメール通信の読者の方は、日本語教育・英語教育などの言語教育に関わっている方も少なくないと思います。ちょっと縁遠いと思われるかも知れませんが、関わりはとてもあると私は思っています。差し迫ってきた文学系のシンポジウムですが、23日、26日と開催しますのでまずは23日の方から。タイトルは「可能性としての文学教育」です。

札幌室内歌劇場音楽監督をされている岩河智子さんによる「楽しい音楽分析(アナリーゼ)〜イメージを広げる楽譜の読み方」について。国語教育が、文学教育に堕してしまい実際には、教師が持っている予定調和的な解答をあてるような授業になってしまっているという批判がなされますが、一方、芸術教育としての国語教育の可能性についてはほとんど議論されていないのではないでしょうか。私は、言語技術教育を行うことについては賛成ですが、主張を効率よくストレートに伝える技術を身につけさえすればいいというのは、いささか短絡的な考えだと思います。方法と技術をもって芸術を鑑賞したり、味わったりという方法についても考えておくべきではないでしょうか。ブームになったコミック『のだめカンタービレ』のフランスのコンセルヴァトワールでの授業でアナリーゼが取り上げられていました。そのような芸術教育的な可能性ということも注目しておくべきではないでしょうか。実際に岩河さんにアナリーゼをピアノを使ってやってもらうことにしています。

一方、何故、国語教育が道徳教育あるいは文学教育として突出してしまうことになったのか、ということについては、山本康治さんの研究は注目すべきです。子どもたちに美しいもの、芸術的なものと出会わせ、子どもに感動を味合わせることは、子どもたちを学校教育の中に組み込んでいくために必要であったのかも知れません。そうした教育によって、文学愛好家を作り出すという種にもなったのでしょう。国語教育の重点の置き方には功罪があると思いますが、単純にイデオロギー批判を行っても水掛け論になってしまいます。どうしてそういうそのような歴史を持つのかということを知る必要があると思います。そのために重要な講演になると思います。

このような短い私のことばで紹介しきれませんし、もっと違った豊かな内容を講師の方々が話して下さいます。ぜひとも、23日のシンポジウムにご参加いただけましたら、幸いです。

26日のシンポジウムについては次回のメールでお誘います。

9月のシンポジウムの内容については今回のメールでも告知しています。ご覧下さい。

どうぞ、お知り合いの方で関心がありそうな方にメールを転送されたり、お誘い下さいますようお願いします。こちらの2つのシンポジウムは、大学生まで無料としています。院生・社会人は1000円です。申込み受付中です。

http://www.hituzi.co.jp/sympo/