国文学研究が売れず、まだ国史研究が売れるのはなぜか?

国文学研究が売れず、まだ国史研究が売れるのはなぜか?

国文学研究は日本文学研究と呼んでもいいし、国史研究は日本史研究と呼んでもいい。

かつて、それこそ元禄時代の学術出版が勃興した時、古典文学の注釈書的な書籍の出版は大きく花開いた。国文学研究は、学問のコアの1つであった。これも、幕末まで続いて、国文学の教養は、「市民」としての教養であったのではないか。

明治になり、文学は教養のコアと言うよりは、文学そのものとなり、そのもの自体が尊ばれるようになった。教養のコアというのは、政治家、学者、実業家でも歌舞伎や和歌や能楽などは知っていて当然の教養ということだ。(副専攻あるいは教養科目)

それが戦後は女子教育の事業となり、文学研究は、自己批判・自己批評から、国や階級を代表するものではなくなって、一見使えないものという意味での教養に変わった。

大学は実学志向になり、女性も経営学部、商学部に行くようになり、文学部の存在感が限定的になった。作品志向、テキスト志向になって、そこに何かを投影しにくくなった。人生をそこに見出すことが困難になった。この点で、実際の文学作品とは違って、エンターテインメント的、商品的な価値が小さくなってしまった。

これに対して日本史研究についてはまだ、読者がいる。これは何が違うのだろう。先日のある文学研究者の方の談によると1桁読者数が違うという。そこまでではないだろうが、3倍くらいは違うだろう。日本史が1000部なら日本文学は300部から400部ではないだうか。この違いは何によるのだろう。