どこで読むのか

先日お目にかかった女性の研究者の方が、子育て中で、お子さんのサッカーの試合で、(紙の)本、専門書を一人で読んでいるというのは難しいが、kindleなら、(暇つぶしに遊んでいるように見えるので)中身が専門書であろうと、端末を操作している、という方に見えるので、気にしないで「書籍」を読めると言っていた。


これは確かにそうだ。kindleなら、他のお母さんたちが雑談しているときに「書籍」を読んでいたとしても、場違いではないように見える。


電子書籍のユニークかつ重要な読むシーンと思う。紙の本を読んでいると何だか、その場から浮くというのはどうしてなんだろう。居酒屋で文庫を読んでいても浮かない場合とこの居酒屋で文庫を読んでいるのはかなり場違いでしょうというのはあるし、ラーメン屋で週刊誌を読むのがその場に合うこともあるのに、ラーメン屋のオヤジにマンガ読んでいるんじゃない、と怒られてしまう場合もある。


しかしこれは、書籍だけではなくて、文書についても言える。例えば会計士の人が紙の会計資料を遊びの場で読んでいると場違いだが、kindleで決算資料を読んでいても、場違いに見えない、ということと同じでありましょう。


また、パソコンでも同じで、遊び場でエクセルを操作していると場違いだが、エクセルのシートをkindleで見ていても気が付かれなければ、他の人が悪気はしないだろう。


書籍というものは、その世界に読む人は入ってしまい、公共の場で顔を作るような化粧をすることと同じように、周囲と違和感を作り出す。しかし、遊びの場であれば、それは、遊んでいるように見えるからか問題がない。逆に、ちゃんとした仕事のデータでも、kindleを職場でいじっていれば、遊んでいるように見えるかもしれない。


先日、別の研究者の方が言われていたことだが、ある学会で、文部副大臣のスピーチがあった時にその内容を記録するためにパソコンに打ち込んでいたところ、内職をしているように思われて、キツイ視線にあったと言っていた。これは理系の学会、特に情報工学系ではほとんど気にされないというかみんな何かを思いつくと、パソコンに入力し始めるのは普通のことだし、文部副大臣もたぶん、記者会見では記者がどんどん発言を入力していくだろうから、気にされなかったのではないだろうか。


シーンによってメディアの受け止められ方が違う、ということは面白いことだ。

●追記
Kindleだと回りの人に本を読んでいると気付かれないということの逆のケースを思い出した。以前、新幹線で大阪に行く時に自由席しかなくて、東京駅のホームで列に並んでいたところ、ドアがあいて人が乗り込もうとした際に、ハンチング帽をかぶり派手なアロハシャツを着た若干風体の怪しげな男が一番最初に割り込んで乗りこんだのを目撃ことがあってけしからんと思いましたが、その男は洋書を手に持っていました。院生崩れ風。注意しにくかったのは、洋書を持ってクセのありそうな奴だったからだと思う。逆の使い方もあるということでしょう。