ウェルメイドの解を探したくなる

1冊の書籍を出す場合、理想を言うなら、1つの筋が通っていることが望ましい。作る場合に、著者が複数であっても、なるべく議論をして共有する部分とそれに対立する部分をきちんと踏まえて個々の論文は書いてもらい、その上で1冊にまとめるというのが理想であるし、そうしようと努力もしている。


しかし、ある方向性を設定した上で、それでもばらつきがあるとしたら、それは仕方がないことであることもある。そうした研究論文集的な書籍に対して、まとまりがないという批判がある時がある。そもそも、論文集は売れないということがあって、買ってもらえないということがある。だから、買ってそういったことを述べるというのは、小社の書籍であれば、ありがたいことでもある。


たまたま、見た、アマゾンでの本の紹介の文章。


失礼承知でいえば、大学の先生方研究者方の論文を寄せ集めたこういう本は、たいてい売れそうにない。共著で、しかも論者各々は実は問題設定としてあんまり近くないし、タイトルも漠然としすぎている。売れるとすればよほどのビッグネームでないとダメなのだろう。読まれるべきものも中にはあるだろうに残念だ。おそらくその大半は各人の大学の生協で、自分の教え子たちの手によって消費されて行くに違いない。


下手をすると論集は電子書籍でかつ無料で出版社を通さず出せばいいし、自分のサイトに論文を載せておいて、リンクを貼っておけばそれで論集になる(その可能性は認める)といって、1冊にすることの価値を認めないということさえある。


しかし、失礼を承知で言うと上記のようなことばは、テキストの消費者のことばなのだ。もちろん、誰でも消費者という立場は持っている。しかし、原始的なところから作っていくということを理解せず、理論も研究も海外から輸入すればいい、できあがったものを受けれさえすればいいという気分に近い。私は、研究のスタート時に完成したものであるということを期待しすぎてしまうのは、消費者的読者であると思う。解がないのだから、作っていくという発想が重要だ。


食物の料理法にたとえると学術書的な書籍は、素材の加工方法の実験から付き合っていくようなものだ。普通は売り物にはならないだろう。これは義務ではないわけだが、できあがった料理をできあがった食べ方で食べるものではない、料理ができるところから付き合わないとならないと思う。これはしんどい料理です。


食べて下さる人に、しかもお金を払って実験に参加して下さっているわけで、何としても感謝しないといけない。感謝します。