忘れられた日本人英訳版

『忘れられた日本人英訳版』が出た。


宮本常一である。私は中学生の時にNHKの放送講座(?)で、宮本常一さんの講座を聴いて面白く思ったものだった。ちなみに森野宗明先生の『伊勢物語』と水原一先生の『平家物語』も聞いていた。


それはともかく、『忘れられた日本人英訳版』である。



私は喜びに堪えない。しかし、これまで時間が掛かったとは!このような名著を翻訳するためのやはり公的な助成金は必要なのではないだろうか。むしろ、文学作品よりも難しいのかもしれない。


http://www.amazon.co.jp/gp/switch-language/product/1933330805/ref=dp_change_lang?ie=UTF8&language=ja_JP




ここで、『忘れられた日本人英訳版』とは離れるが、もともと日本語で書かれている学術書を英訳することの意義について述べたい。できるだけ、身近な人から遠くの人まで、多くの人々の賛同を得たい。

まず、時代の認識があります。近代化、民主化、資本主義化という流れは逃れようのない大きな道筋だと思います。その中に合理的な精神、機会と成果を評価すると言う精神があり、それは多くを西洋の思考によって生まれてきているものだと思います。資本主義と市場主義という考えは、現代社会の多くを覆っています。そのことは、否応なく受け入れざるを得ないことであると思います。

しかし、西洋の民主的な考えの中にも多様性、個性を尊重する部分があるにも関わらず全体としては西洋的合理主義の考えではないものは、結局偏狭であるとか、非合理であるとかいうことで排除されてきています。私にはそれは矛盾であると思います。

学問の世界を考えても、もちろん、論証の手続きは明示的で合理的でなければなりませんが、論理の筋道自体が、単純な合理主義とは違ったルールにしたがっているということはありえることだと思います。

しかしながら、世界の国際語であるといわれる英語で発表しなければならないという規範。多様性を求めるはずが、均一化したルールにしたがわないといけない、従わざるを得ないという状況が強まっています。

英語には英語の論理があり、西洋的な合理主義と結びついた英語には、アカデミックな、抽象的な議論のために鍛えられたという要素があり、その合理性は強いと思います。しかし、英語が普遍的な言語として用いられるということは矛盾をはらみます。英語であってもあくまで一つの特殊な言語であるわけで本来的には英語独自の論理を持っています。本当に普遍語になりうるのかという点はナゾです。一方、もしかしたら脱色された英語は、抽象的な普遍的な論理構造を担えるようになっているのかもしれません。英語であるがゆえに表現しやすい論理的な構造もあるのだと思います。

日本語にも日本語の論理があるでしょう。また、日本語によって普遍的なことも議論することは不可能ではないと言えます。日本語も普遍的抽象的な議論も可能だと思います。ここでも矛盾があって、普遍的な要素と個別的な要素があるということです。

とすると、日本語によって書かれた日本語による学問が、英語的な論理に乗りやすい時もあれば、英語的な論理に乗りにくいことはもあることだと思います。

ここで大きな矛盾に立ち入りますが、日本語は日本語でやっていくという方法と日本語で書かれているものを日本語以外の言葉に翻訳して、世の中に出す、ということの両方があり得ると思います。前者は、日本語のことは日本語でしか語れないので、他の語に翻訳しないという一貫した矛盾しない立場ですが、そのかわり、閉じこもってしまいますし、理解されることがありません。正確に言うと理解されるという可能性がありません。後者は、もともと翻訳されにくいものを翻訳しようというのですから、矛盾をはらんでいます。できないことをできるようにしようということです。挑戦するのはいいが、それは失敗する危険性はとても高いということになります。

文学作品の日本語訳については、公的な援助が行われているということがあります。思考の塊である学術論文、学術書籍を英語訳するということにも同様かそれ以上の意味があると主張したい。公的な援助があるということは望ましいことであると思いますし、広く基金を作るべき訴えていくことも行いたいと思っています。非英語の思索を、英語にすることで、英語という言語も豊かなものになり、欧米論理の言語を使った上ではあるけれども、欧米論理に留まらない言論をこの世界に流通させることができる。そのことが対話可能な世界を作るという道の一歩になるのではないか。

私はその道を選びたい、とともにそこに挑戦したいと考えます。

その場合に、経済的な支援が必要だと思う。



そんなことを言っていたら、翻訳可能か、という議論を見つけました。4年前ですけど。



国際研究集会「能の翻訳を考える―文化の翻訳はいかにして可能か―」(12/15〜17)


多くの古典作品を素材とし、掛詞・縁語等を駆使した劇詩である謡曲は、それ自体日本固有の文芸世界に深く根ざした非常に複雑なテキストであり、しかも音楽・所作・面装束等の存在を前提にして書かれたものでもあります。
また、世阿弥が自分自身の創出した新しい芸術について語るために紡ぎ出した能楽論の言葉には、本来「以心伝心」としか言いようのないような微妙な何かを伝えようと、もがいているように見えるものも多くあります。

そのようなテキストや表現を外国語に翻訳することが、本当に可能なのか、可能だとすればいかにして可能なのか…。こうした問いは、「外国人の能楽研究者と共通の土俵に立ち、真に対等で刺激的な議論を行ない得ているか」「できていないのなら何が不足しているのか」という問題とも、どこかでつながっているはずです。


http://www.hosei.ac.jp/news/shosai/news_201.html